ストリートのヒーローとして
本作では、トム・ホランド演じるMCU版スパイダーマンとしては初めて、ストリートでの活躍に焦点が当てられている。これまでは特殊な環境で戦うことも多かったため、ニューヨークの摩天楼や大通りをスイングする姿が大スクリーンで描かれるのは久々。スパイダーマンが、ニューヨークにおける「親愛なる隣人」だったことを思い出させてくれる。
映画の序盤は、このコミック由来のスパイダーマンらしい活躍を痛快かつコミカルに描く。コミックの有名な1コマをほとんど再現し、あるいはオマージュを捧げたカットがいくつも登場し、ゲーム『Marvel’s Spider-Man』を思わせるショットさえ出てくる。これぞスパイダーマン・アクションという楽しさをたっぷり味わえる滑り出しだ。

コミックでもおなじみの組み合わせである、パニッシャー/フランク・キャッスルとのタッグもファンには見どころ。「Marvel デアデビル」以来、配信ドラマでパニッシャー役を演じてきたジョン・バーンサルが、本作で初めてMCU映画に登場した。
悪人を殺さないスパイダーマンと、激しい暴力や殺傷を厭わないパニッシャーの正義は相容れず、ふたりはほとんど対立しているような関係性だ。ただしホランド演じるスパイダーマンは、『シビル・ウォー』におけるバッキー・バーンズ&サム・ウィルソンがそうだったように、やや粗野で堅物な年長者との相性が抜群。今回のパニッシャーとも絶妙な化学反応を見せてくれる。

それでは『ノー・ウェイ・ホーム』のあと、すっかり変わってしまった世界で、ピーターは以前にもまして充実した生活を送ることができているのか?
現実はうまくいっていない。ピーターは自分の日常からいなくなったMJとネッドを、SNS越しに今も見守っており、失われた生活への未練を捨てられずにいる。MJが働いていたコーヒーショップのカップは今も部屋に置かれており、その中にはMJにひっそりと宛てた手紙が入っていた。 そんななか、自らの能力に異変が起きる。突然の遺伝子異常によって、ピーターはスパイダーマンとしての能力をうまく操れなくなり、時にはピーター・パーカーとしての理性と優しさが一時消滅してしまうのだ。

身体を乗っ取られる恐怖
物語の前半は、人々の身体をジャックして犯罪行為を繰り返す、姿の見えない何者かを追う一種の探偵物語だ。どこにいるのか、どうすれば倒せるのかがわからない敵を相手に、ピーターは悪戦苦闘を強いられる。
しかもピーターは遺伝子異常により、自らの意思とは無関係に、うまくウェブを発射することさえできない。ピーターの中で起きている異変と、彼の追いかけている事件には、ともに「何かに身体を乗っ取られる」という共通項がある。
姿の見えない黒幕は、ピーターに語りかける。「お前すらもピーター・パーカーを忘れてしまうぞ」と。すなわち、それはスパイダーマンがピーター・パーカーを乗っ取ってしまうことだ。

歳を重ねたピーターは、本当の意味で大人になれたのか。彼は成熟したのではなく、適切に成熟する方法を失っただけではないか。世界から己についての記憶を消し、以前の生活や大切な人を失った彼は、再びの喪失を恐れ、もはや新しい日常を求めていないかのようだ。自らの傷や未練を抑圧し、そのぶん人々を救うことに身を捧げているように見える。自分は仕事に没頭しているのだと口にしながら。
そもそも、スパイダーマンはスーツに身を包んだ正体不明のヒーローだ。それゆえ、スーパーヒーローとしての使命と、ピーター・パーカーとしての日常はつねにトレードオフになる。しかし、現在の彼はピーター・パーカーとしての人生を捨ててしまった。
本作はそうしたアイデンティティの危機を、肉体が変異する一種のボディホラーとして描き、「身体を乗っ取る」悪の脅威と結びつける。 思えば序盤から、ピーターはある人物のオフィスを訪れた際に、素顔を覆っているマスクを頑なに脱がず、ダメージ・コントロール局でも素性を明らかにせよと銃を向けられる。「スパイダーマンとは何者か」、つまり彼のアイデンティティがテーマであることは早くから示唆されているのだ。
