父の死を機に実家に戻り、献身的に母の介護を続けていた藤井佳奈。だが彼女は、話しかけてもほとんど無反応で、食べ物をこぼし、部屋を散らかし、ときに突然噛みついてくる母に対して、次第に苛立ちを募らせ、疲弊していく。そんななか、佳奈の周囲で不幸な出来事が立て続けに起こり、彼女はその原因が母――今はもう母ではない“何か”――による呪いだと考えるようになる。果たして、佳奈が言うように本当に呪いが存在し、家族に危険が迫っているのか。それとも、介護に疲れ心身ともに限界に達した彼女が生み出した偽りの真実なのか‥‥。
映画『遺愛』が描くのは、愛すべき家族がある日を境に忌まわしい存在へと変わっていく“恐怖” だ。主人公・佳奈を演じるのは、山下リオ。母の介護に疲れ、何かに取り憑かれたように次第に常軌を逸していく女性の狂気を体現する。監督はこれまでバラエティ番組、配信ドラマ、短編映画等で高く評価されてきた酒井善三。彼がこれまでタッグを組んできたテレビ東京の大森時生プロデューサーとともに、初めての劇場長編映画に挑む。
予告編制作会社バカ・ザ・バッカ代表の池ノ辺直子が映画大好きな業界の人たちと語り合う『映画は愛よ!』。今回は、『遺愛』の酒井善三監督に、本作品や映画への思いなどを伺いました。

家族のドラマに潜むホラーの恐怖
池ノ辺 この作品は、監督の初めての長編映画ですよね。あっという間に時間がたつほど面白かったです。
酒井 うれしいです。
池ノ辺 監督はこれまで、テレビのバラエティ番組や配信ドラマ、短編映画などを手掛けてこられたわけですが、やはり昔から映画を撮りたかったんですか。
酒井 そうですね、映画が好きなので、映画を作りたかったというのはあります。
池ノ辺 今回の映画制作のお話は、どの段階で監督のところに来たんですか。
酒井 どういうものを作ろうかというところから、いつも組んでいる大森時生プロデューサーと話を始めました。
池ノ辺 最初からホラー映画という話だったんですか。
酒井 大森さんからは、ホラー映画というオファーで企画が動いているという話をいただいたんです。ただ、これは大森さんも承知のことですが、僕は真正面のホラー映画を作る人間ではないので、いわゆる超常現象的なホラーではなくとも、恐怖映画であればいいですよね、ということで進めました。
池ノ辺 実際、何かが出るわけでもないんですけど、本当に怖かったです。そこは意識して撮ったということなんですね。
酒井 そうですね。もちろんジャンル映画なので、不安や恐怖感、緊張感があるように撮っていくことが重要であり、観る人には常にそれを感じてもらう必要があるとは思っていました。


池ノ辺 観ていて怖いんですけど、一方で、家族のこと、介護のことなどが描かれていて、監督はホラーというよりは「愛」をテーマにしたかったのかなと思ったんですが。
酒井 必ずしもそれだけとは言えないのですけど、“ホラー”つまり恐怖とは何かということを煎じ詰めて考えると、「不条理で、避けられず、解決ができない、どうしようもない」ことが一番の恐怖だと思うんです。死ぬことも含めて。そもそもドラマというのは、すべてに理由と答えがある。解決できる。その積み重ねですよね。でもホラー映画は、もちろん解決しようとしてもがくわけですけど、実は解決できませんでした、というパターンです。解決できないとわかったその瞬間が怖い。それはドラマが否定される瞬間だと思うんです。我々は、誰かのために、何かのために日々生きていると思っている、それが無意味だとしたら、という恐怖ですよね。
池ノ辺 なるほど。

酒井 そこはみんな、普段なるべく考えないように生きていると思うんです。そこから考えていくと、ホラーというのは「ジャンル」というよりは「要素」だと思ったんです。ホラー映画の底層に、実は別のジャンルを走らせている。『リング』(1998) でいえば、主人公が事件の謎を追っていくというミステリーのベースがあって、そこに要素である“ホラー”がある。その発想からいくと、物語を成立させるには、“ホラー”だけでいくわけにはいかない。怪奇な、不条理なことに出会う人たちのドラマが底層に同時に走っているはずだと思ったんです。それが今回はファミリードラマ、題材としての「家族愛」になったということかなと思っています。
池ノ辺 それは、現実でも問題になっていますが、お母さんに介護が必要な状況になって、自分は血がつながった娘なんだから自分が介護していこう、そういう避けられないところから、ということですか。
酒井 そういう側面もあるかもしれないし、あるいはそこに逃げてるようなところもあるかもしれないですね。
池ノ辺 逃げる?
酒井 これは人によると思うんですが、「自分の義務」、つまりここでは「親の介護」ですが、そこに逃げ込むようなところもあると思うんです。例えば、自分が本当にやりたいことがあったら、それは私には関係ない、できないといって振り切ることもできると思うんです。でもそういうものが自分に無い中で、「親の介護があるから」というのが、ある種の逃げというか言い訳になることもあるんじゃないかなと。それは彼女自身にもはっきりとはわからないことだと思うし、僕にもわからない。ただ、必ずしもそう単純なことではないのかなという気はしています。
池ノ辺 私自身、親の介護をするような年齢になって、他人事ではないなと思いながら観ていたんですが、今、監督がおっしゃったように、何か自分の生きる意味を見失った時に、親の介護というものを生きる意味とか意義にしてしまうということはあるかもしれないですね。
