「言うことが新聞の見出しみたいにかっこいい」
藤倉
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指揮者で面倒くさい人ってときどきいますが、ブーレーズはある意味すごいシンプルで、イエスかノーだけで、変なエゴが全然ない。すべてが音楽のためだけ、という人です。僕の曲をブーレーズが指揮するリハーサルのときでも、周りから見ると、ブーレーズにあんなにリクエスト、注文を出している若い作曲家って初めて見たと言われた。でも、はっきり言って、間違った音を出しているのに、何も言わなかったらその方が嫌です。あのトランペットは音が違うんですけど、と言うと『え?じゃ、もう1回。はい、次』。すごくプラクティカルな人です。 たとえば曲のクライマックスでピッコロが聴こえないところがあったので、それを指摘すると、またオケに向かって『トロンボーンの2人と、打楽器の3人目と、その3人だけ強弱を下げて』。それはちょっと良くないんじゃないですか、と言おうとしたら『trust me(信頼してくれ)』と。とにかく無駄がないし、判断が早いんです
驚くべきは、ブーレーズが80歳にもなって、藤倉さんのような若手作曲家の作品を率先して取り上げ、それも一度きりではなく、たびたび指揮していたことである。普通だったら、その年齢だったら偉い偉いと言われてすっかり守りに入るものだ。
藤倉
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ブーレーズは僕の先生というわけじゃないと思います。(若手作曲家をサポートする)ルツェルン音楽祭プロジェクトのメンターであり、その後も、他の場所でも僕の作品を演奏してくださったり…。 周りでは、ブーレーズはこないだダイのことをこういう風に言っていたよ、という話は聞くんですけど、有難いなあとは思っています。でもどうやって言えばいいんだろうか。最初から、すごくおこがましいんですけど、性格的な一致、すごく仲良くなれそうな、という感じはしました
日本のクラシック業界は、ある意味、先生と生徒という師弟関係のピラミッドががっちりと組み込まれている構造である。その点、ブーレーズが藤倉さんと結んだ関係は、音楽家どうしの、もっと自由なものなのだろう。
藤倉
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若いときの僕のアンサンブルの曲で、『フィフス・ステイション』という曲があるんですけど、その作品は、指揮者と、トランペットとチェロだけが舞台にいて、他の8人は客席から弾く。それをブーレーズが指揮してくれたことがあったんです。
そのとき、実はひどいことに、リハーサルが始まったら、ブーレーズに届いた楽譜が結構古い版だったんです。僕は結構改訂していて、リズムは変えずに音程だけ変えたんです。しかもたくさんの箇所で。音の数も変わっていないし、リズムも一緒なんだけど、出てくるピッチが違う。
1回目のリハのときに僕はいなかったんですが、ブーレーズから連絡が来て『パート譜とスコアが違っているようだ』と。明後日は本番。それでどうしようかとなったときに、ブーレーズが『大丈夫だ』と。『リズムが変わってなくて、音程しか変わっていないんだったら、僕は耳を信じて目は信じないから(I trust my ear, not my eyes)』。見るスコアは信じないけど、出てくる彼らの音だけを信頼して振るから大丈夫と。
常に言うことが、新聞の見出しみたいにかっこいい人なんです。ごちゃごちゃ言わない。それは、コンサートホールを建てさせたり、オーケストラを作らせたり、IRCAMを作らせたり、政治家を納得させるすごくいい武器なんじゃないですかね。 誰でもわかる言葉で、しかも説得力がある。言った瞬間から状況が変わる。ブーレーズが到着するまでは、政治家たちがああだこうだ揉めているわけですよ。そこにブーレーズがやって来て、必ずそれを作らなければいけない理由をタタタタタと言って、じゃリハーサルがあるんで、と席を立った瞬間、次はもう予算の話になっている。つまり、もう作ることになっているという…。そういう場面を見た人から聞きました 。
最小限の言葉で最大限の効果が得られる言葉を持っている音楽家。それが、政治の状況をも動かしてしまう。いまの日本の状況からすると、ちょっとうらやましくなってしまうような、ブーレーズならではのエピソードである。
藤倉
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判断が早いんです。インタヴューで質問者をさえぎることもしばしばで。すごく頑固な方でもあるらしいんです。自分を曲げないというか。もちろん、すべてが間違ってないわけではないと思うんですけど、決断力の人ですね。右か左か。よく聞かれるんです。『どっち(which)?』って 。