荒波に正面からぶつかり続ける映画。荒れ狂う海や洞窟の中に悲鳴を聞き、広大な海というブラックホールに呑み込まれ、光を発見するスペクタクル映画。クリストファー・ノーランの新作は、フィルモグラフィーの集大成的な作品である。そしてノーランの他の映画と同じく、観客をスクリーンに没入体験させる新たな傑作である。『オデュッセイア』は、一緒にこの船に乗ることを私たち観客に呼びかけている。
本作は7月17日に全米公開され、世界興行収入約16億3000万ドルを記録 (9月7日時点)。日本では9月4日からIMAX先行上映が行われており、9月11日から全国公開。本コラムでは、観客を船に乗せるような没入感、「顔」が映し出す英雄の多面性、映像と音が生む物理的な感触、帰郷と記憶をめぐる非線形の物語を手がかりに、ノーランが古典叙事詩から生み出した新たな映画体験に迫る。
観客を船に乗せる
松明のあかりに照らされた洞窟のような宮殿。『オデュッセイア』(2026)は、トラヴィス・スコットが演じる吟遊詩人の”歌”から始まる。「顔」、「艦隊」、「戦争」、「男」。吟遊詩人が放つ一つ一つの単語、イメージを、この映画は探求していく。曇天の島々。実りのない荒れた海。世界地図がなかった時代に、人々の目の前に広がる海は、どれほど宇宙に似ていたことだろう。トロイア戦争の英雄オデュッセウス(マット・デイモン)は、ブラックホールに呑み込まれるように、広大で荒れた海を進んでいく。故郷イタカへの帰郷=ノスト(ノスタルジーの語源)。オデュッセウスは荒れ狂う海の遭難者だ。この映画には、観客を船に乗せるような感覚がある。観客と共に海というブラックホールに突入していく感覚がある。
クリストファー・ノーランは、最新の機材で最古期の物語を撮影する。全編IMAXカメラで撮られたスペクタクルな映画であるにもかかわらず、オデュッセウスをはじめ、キャラクターの「顔」が強い印象を残す。戦後の世界を生きる疲労と傷跡。ノーランは、吟遊詩人が歌った「顔」、「艦隊」、「戦争」、「男」を、作品のテーマだけでなく、IMAXカメラで撮るテーマにしている。「顔」は物語の起源である。トロイア戦争は、ギリシャの女神ヘラ、アテナ、アフロディーテによる美しさをめぐる口論から始まっている。美しさをめぐる審判は、トロイアの王子パリスに委ねられる。パリスはアフロディーテを選んだ。アフロディーテはその報いとして、世界でもっとも美しい女性ヘレネを、パリスに恋させる。ヘレネはトロイアに向かう。ヘレネの夫であるスパルタ王メネラオスは、当然ながら激怒する。軍を動員させ、ヘレネを取り戻そうとする。ギリシャ軍は撤退を装い、オデュッセウスをはじめとする兵士たちが内部に隠れた、巨大な木馬をトロイアに残す。トロイア軍は木馬を運ぶ。こうしてギリシャ軍は、トロイアの城門を突破することに成功する。トロイア軍が勝利を祝う中、木馬から飛び出したギリシャ軍が、すべてを焼き払う。一般市民を巻き込んだ虐殺が始まる。トロイアは滅亡する。しかし、オデュッセウスが故郷のイタカにたどり着くのには、10年の歳月を要することになる。

ノーランは、すべての災いの発端である”「顔」のダイナミズム”を捉える。トロイの木馬を差し出すために囮となった犠牲者シノン(エリオット・ペイジ)の顔(シノンはホメロスの「オデュッセイア」ではなく、ウェルギリウスの「アエネーイス」の登場人物である)。ノーランによる完全な脚色である、トロイアから連れ戻された”美しさの象徴”ヘレネ(ルピタ・ニョンゴ)が顔に負った傷。巨大な怪物を見上げる際、目の前に立ちはだかる相手に圧倒される、兵士たちの固まった表情と瞳。そして複雑な多面性を持つオデュッセウスの顔。ノーランが影響を受けたというエミリー・ウィルソン翻訳版の「オデュッセイア」は、「複雑な男について語ってくれ」という文章から始まっている。ウィルソンが記した詳細な長い序文には、オデュッセウスという”英雄”の、厄介極まる多面性が描写されている。オデュッセウスは、「移民であり、海賊であり、大工であり、王であり、アスリートであり、物乞いであり、夫であり、恋人であり、父親であり、息子であり、戦士であり、嘘つきであり、指導者であり、泥棒でもある」。まさしく、”千の顔を持つ男”である。

マット・デイモンの演技アプローチを心から称賛したい。デイモンは、「自分が演じる最後の映画」のつもりで、オデュッセウス役に挑んだという。ほとんどのシーンで無表情に近い演技といえるが、だからこそ、一人の人間の中で誠実さと狡猾さが犯罪的なまでに行き交い、何者にも変身することができるオデュッセウスの多面性を精緻に彫刻しているといえる。オデュッセウスはトロイア戦争のPTSDに苦しんでいる。虐殺のきっかけになってしまったこと。客人への歓待、礼儀と礼節を重んじる”ゼウスの掟”を破ってしまったこと。海辺で傾くトロイの木馬は、トラウマであり、過ちの象徴である。オデュッセウスの故郷への旅は、贖罪の旅だ。”いったい自分は何をしてしまったのか”(『オッペンハイマー』(2023)と共通する主題である)。ノーランは船に観客を乗せるように、ハリウッドのトップ俳優たちの”「顔」のダイナミズム”に観客を乗せる。
イタカの宮殿で彼の帰還を待つ妻のペネロペ(アン・ハサウェイ)が、オデュッセウスと船の旅を共にする部下たち、そして私たち観客が、この人物、この「男」の「顔」のイメージを”どのように見るか?”という点に重きが置かれている。それはアテナ(ゼンデイヤ)以外の神々が実像としては描かれず、フレームの外に置かれていることと一致している。オデュッセウスは、息子のテレマコス(トム・ホランド)に忠告する。人間の中に神を探してはいけない。ただ失望してしまうだけだと。神を”どのように見るか?”。あるいは、神を”どのように形作るか?”。それは流動的なイメージであり続ける。本作において神は、怒り狂う風や海や大地、雷鳴の中に仄めかされている。
