Sep 08, 2026 column

映画『オデュッセイア』 クリストファー・ノーランの集大成的作品、悲鳴を聞く映画、船は光を追い続ける

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船は光を追い続ける

帰郷という概念、記憶という概念、そしてノーランの代名詞といえる非線形の物語。本人も認めているように、ノーランのフィルモグラフィーは、ずっと『オデュッセイア』を撮っていたといえる。本作は”物語の真っ只中”、ペネロペの求婚者たちの宴会から始まる(思わずひっぱたきたくなるほど卑劣な求婚者、アンティノオス=ロバート・パティンソンが素晴らしい)。ペネロペは吟遊詩人によるオデュッセウスの歌について、歌はいらないと言う。彼女が求めているのは、オデュッセウスその人なのだと。アン・ハサウェイはペネロペというキャラクターを、夫の帰りを忍耐強く待つ女ではなく、攻撃性を内に秘め、必要なときには権力を行使する、主体性のある女性として解釈していることが伝わってくる。求婚者たちを焼き払え。ペネロペの攻撃性は、トロイアを焼き払ったオデュッセウスとどこかで通じ合っている。ペネロペとは対照的に、ニンフのカリプソ(シャーリーズ・セロン)は、オデュッセウスを留めようとする。蓮の花を食べさせることでオデュッセウスの記憶を消し、彼の帰郷を阻む。また、ペネロペから子ども扱いされている息子のテレマコスは、オデュッセウスの帰郷と逆行するように、父親の消息の手がかりを探しにスパルタへ向かう。

非線形の物語を構築するノーランの手法は、より洗練された形で『オデュッセイア』に昇華されている。ノーランにとって、時間とは主観的な感覚である。何かに触れたとき思い出す記憶が、過去の感情であるのと同時に、現在の感情であるように、それは触覚的に描かれている。20年の不在を経ても、主人であるオデュッセウスを見分けた犬のアルゴスのように。オデュッセウスと再会したアルゴスは、失った年月を取り戻したのだ。本作の時制は、ある意味”すべてが現在”といえる。

それは音の設計にもかかわっている。音は記憶の断片となる。オデュッセウスが弓を放つとき、それは音楽となる。そしてこの映画を体験した者は、怪物キュクロプスによる地鳴りが響くような悲鳴を忘れることはできないだろう。『オデュッセイア』は、悲鳴を聞く映画である。どこへ行っても悲鳴が付きまとっている。オデュッセウスが、虐殺されるトロイアの一般市民の悲鳴を忘れることができないように。サマンサ・モートンが演じる魔女キルケの登場シーンは、悲鳴という音響的な主題の点においても素晴らしい。魔女キルケの部屋や彼女自身に、悲鳴が刻印されているといっても過言ではない。詳細は省くが、サマンサ・モートンの奇跡のような演技をぜひ劇場で見届けてほしい。撮影現場では、彼女の演技が終わると感動の拍手が起きたという。

そしてオデュッセウスは帰郷する。この映画には手に汗握るスペクタクルな大団円が待っている。しかし、ノーランは自身が作り上げたスペクタクルに批評的な視点、両論併記的な視点を注いでいるように見える。スペクタクルであればあるほど、私たちが興奮すればするほど、それはトロイアで起きた悲劇と鏡のような関係を形成していく。この世界は過ちを繰り返す。贖罪が終わることは決してない。『オデュッセイア』は、帰るべき故郷、ノスタルジーが、もはや歌の中にしか存在できないことを示している。同時に、だからこそ世界に新しい夜明けが来る日を待ち続けている。光のほうへ。この傑作は、船が光を追い続けることだけを、ただ信じている。

文 / 宮代大嗣

作品情報
映画『オデュッセイア』

「オデュッセイア」は、古代ギリシャの詩人ホメロスによって書かれた英雄譚であり、西洋文学の金字塔にして世界最初の物語のひとつとして知られている。
トロイア戦争の終結後、主人公オデュッセウスは、家族の待つ故郷へ帰還を目指す。しかし彼の前には、荒れ狂う海、怪物、そして神々の介入など容赦ない試練が立ちはだかる。
本作は、10年にも及ぶ主人公の壮大なる旅と冒険、その行く手を阻む数々の困難を描いた叙事詩である。

監督・脚本:クリストファー・ノーラン

出演:マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、ルピタ・ニョンゴ、ゼンデイヤ、シャーリーズ・セロン

配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画

©2026 UNIVERSAL STUDIOS

2026年9月4日(金) IMAX先行公開
2026年9月11日(金) 全国公開

公式サイト odyssey-film.jp