Sep 08, 2026 column

映画『オデュッセイア』 クリストファー・ノーランの集大成的作品、悲鳴を聞く映画、船は光を追い続ける

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ノーランの映画における物理的な感触

トロイアの海辺に傾く巨大な木馬の造形が、発明的なまでに素晴らしい。まるで鉄の塊であるかのような重量が感じられる。多くのイメージにある車輪は、この木馬には付いていない。囮となり、矢で射抜かれたシノンは、トロイア軍の兵士に「贈り物」だと告げる。巨大なオブジェが、大勢の人たちによって引きずられていく。巨大なオブジェの重さは、戦争の重さであり、オデュッセウスが心に抱える罪の重さであり、男性優位社会の重さとなっている。過ちの象徴。『猿の惑星』(1968)の砂浜に埋もれた自由の女神像が、このオブジェのインスパイア元だという。『ダークナイト』シリーズが証明しているように、ノーランの映画にはイメージを超えた物理的な感触がある。鉛の塊、金属の衝撃とでも称したくなるほどの重さ。後期青銅器時代を描いた『オデュッセイア』は、まさにノーラン的な物理性に適しているといえる。オデュッセウスが仕える顔の見えない指導者アガメムノン(ベニー・サフディ)の仮面や鎧、マントは、バットマンのようである(鶏のトサカが付いたような仮面のデザインと赤い色彩が素晴らしい)。トロイアの城門が開き、アガメムノンが登場するシーンには、ワクワクするようなスペクタクルがある。

ノーランはスペクタクルを再定義する。狭いスペースに、スペクタクルのイメージを発明する。『ダンケルク』(2017)における、ぎゅうぎゅうに人が詰められた船内が、見えない敵によって銃撃されるシーンの恐ろしさ。銃撃による穴で、船内に海水が流れ込んでくる。狭いスペースで方向感覚を失っていくようなスペクタクルは、『オデュッセイア』のトロイの木馬の内部の描写に応用されている。浜辺に放置されているときの木馬は、満潮になると海水が流れ込んでくる。内部にいるぎゅうぎゅうに詰められた兵士たちは、行き場もなく溺れる。木馬が引きずられて運ばれるシーンでは、内部がさらに過酷な状況を極める。狭さを利用するスペクタクル描写は、むしろ本作の全般にわたっているといえる。ペネロペが待つ洞窟のような宮殿には、求婚者たちがひしめき合い、宴会を開いている(求婚者たちは、客人をもてなす”ゼウスの掟”を乱用している)。航海の途中、ポセイドンの息子である片目の怪物キュクロプスと遭遇する洞窟のシーンには、暗く、閉所的なスペクタクルが生まれている。後者のダークファンタジーぶりは、おそらくゴヤの絵画「黒い絵」にインスパイアされている。キュクロプスは兵士を残酷に食べるが、観客はこの怪物にむしろ同情の目を向けることだろう。映画のエモーションにおける反転が起きる。オデュッセウスたちこそが、傲慢な侵略者なのである。

『オデュッセイア』にインスピレーションを与えた作品として、アンドレイ・タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』(1966)や黒澤明の『乱』(1985)、マーティン・スコセッシの『最後の誘惑』(1988)を、ノーランは挙げている。このリストに加え、筆者はフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(1979)とアベル・ガンスによるサイレント映画の大作『戦争と平和』(1919)のイメージを想起した。前者は方向感覚を失うことや、正義や構造への不信感について。後者は戦争を基にした冥界=ハデスのイメージについて。『戦争と平和』では、戦争の死者たちが墓から蘇る。ノーランはサイレント映画の影響をたびたび語っている。『オデュッセイア』が、最新のIMAXカメラという機動性に制限のある大きな機材を使用していることは、サイレント映画時代にミッチェルのような大きなカメラが使われていたことと、逆説的だがつながっている。血を飲ませることで死んだ者が蘇る冥界のシーンは、死者と同時にサイレント映画の精神を甦らせているといえる。「死者が生者を悼む」とは、サイレント映画の亡霊が現在の映画を悼んでいると言い換えられる。また、子供の頃のノーランは、IMAXシアターで上映された『To Fly!』(1976)などの短編に憧れていた。空撮をはじめ、ひたすら乗り物を撮るこのIMAX作品には、80年代のブロックバスター映画のような楽しさがある。つまりノーランにとって『オデュッセイア』を撮ることは、映画の歴史を旅することに等しい(余談だが、子どもの頃のノーランが通っていたノースブルックのEdens Theatreは、その未来的な建築デザインがノーランの映画のイメージと著しく重なっている! )