Mar 29, 2024 column

『オッペンハイマー』クリストファー・ノーランの歴史から見る集大成

A A
SHARE

矛盾と嘘のなかで

ノーランがオッペンハイマーの半生を映画化しようと考えたきっかけは、彼の抱えていた倫理的ジレンマと矛盾に心ひかれたことだった。『TENET テネット』の劇中でオッペンハイマーの名前に言及したノーランは、同作の撮影終了後、出演者のロバート・パティンソンからオッペンハイマーの演説集を渡されて強い興味を持ったそうだ。

自らの執着心ゆえ、目的のために決定的な倫理を踏み外してしまう――そんな人間像もまた、ノーランが過去の作品で繰り返し描きつづけてきたものだ。これはほとんどすべての作品に見られる傾向で、もはや作品名とキャラクターの名前をひとつひとつ挙げるまでもない。

ただし彼らは、その事実を前にしてことごとく葛藤し、頭を抱える。一部の恐ろしい人々を別にすれば、彼らはどうしても自分のありように開き直ることができず、あまたの矛盾と嘘をひそかに引き受けるしかなくなるのだ。J・ロバート・オッペンハイマーという人物は、その意味でまぎれもなくクリストファー・ノーラン作品にふさわしい主人公だ。さらに言えば、ルイス・ストローズを“もうひとりの主人公”と呼べるのもそのためである。

長年にわたりIMAX撮影に取り組み、常識はずれの映像体験を生み出してきたノーランは、撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマとともに、本作では“人間の顔”のドラマティックさに光を当てている。トリニティ実験をはじめとするスペクタクル要素の強いシーンであっても、観客の脳裏に強く印象を残すのは、そうした矛盾と嘘にまみれた人間の顔だ。その時、彼、彼らは何を見ているのか、何を考えているのか――。

オッペンハイマーの視点で物語を描くことにこだわったノーランだが、それは単に彼の目線から歴史上の出来事を編み直し、再解釈するという意味ではない。矛盾と嘘を引き受け、ほとんど出口のない迷宮に迷い込んでしまった人間の心理と精神状態を、映画というメディアによって観客にも味わわせるということだ。

しかも、それをシンプルな語り口ではなく、凝りに凝ったストーリーテリングと撮影・編集で成し遂げてしまうところにこそ、映画監督クリストファー・ノーランの進化がある。いまや、ノーランの言う「映画への没入」とは、ド派手なアクションやスペクタクルで「見たこともない映像を見せる」ものとはまるで異なっている。映画『オッペンハイマー』は、『フォロウィング』や『メメント』に始まったフィルモグラフィーの集大成であり、ひとまずの大いなる到達点だ。





文 / 稲垣貴俊

作品情報
映画『オッペンハイマー』

第二次世界大戦下、アメリカで立ち上げられた極秘プロジェクト「マンハッタン計画」。これに参加したJ・ロバート・オッペンハイマーは優秀な科学者たちを率いて世界で初となる原子爆弾の開発に成功する。しかし原爆が実戦で投下されると、その惨状を聞いたオッペンハイマーは深く苦悩するようになる。冷戦、赤狩り‥‥激動の時代の波に、オッペンハイマーはのまれてゆくのだった。

監督、脚本・製作:クリストファー・ノーラン

原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン 「オッペンハイマー」(2006年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ文庫)

出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー

配給:ビターズ・エンド  ユニバーサル映画 

© Universal Pictures. All Rights Reserved.

公開中

公式サイト oppenheimermovie