原作を知らなかったために、この異形のヒロインたちを見た時点では数年前にあった『モンスター娘のいる日常』のような作品なのか?と思っていた。実際、基本であるのはこの多種多様な登場人物らの織りなす“日常もの”だ。彼女らの学校や私生活での様子がコミカルさをメインに描かれている。
が、見ていると、セリフの端々に作品世界を覆っている不穏さがあることに気づかされる。
現在の多様な形態の人間がいる世界に対し、「もし四肢生物が人間になっていたら、髪の色や肌の色が違うだけで深刻な差別問題は起こらなかったはず」。ここで語られる“もし”は、つまりは僕らの世界だ。言い換えるとこの作品世界は多様さにあふれているが、しかしそれは多様であることを皆が受け入れている世界なのではなく、形態間の差別は存在し、どうやら薄氷の上に成立しているようであることが含められている。それぞれの形態に対しても同様で、ヘビに似た南極人は「南極蛇人」と呼ぶ人もいるが、この言い方は蔑称であること。人馬の背中に乗ることは重度の差別行為であることがわかってくる。
主人公たちの暮らす国は日本だが、その細部も僕らのこの国とはいろいろと異なっている。この世界の日本では、こうした形態間差別が起こらないように徹底した道徳や思想の教育がなされており、それを侵害したものは思想矯正所と呼ばれる矯正施設に送られてしまう。
そこで気がついた。 冒頭のクラスの演劇で、女の子が王子様役になったことにはナゼ誰も何も突っ込まなかったのか。あれはつまり、形態間の差別だけではなく、ジェンダー差別も思想教育で起こらないようにされているということなんだろう。彼ら・彼女らにとって同性間の恋愛感情は特異なものでも何でもなかったのだ。
「変わったキャラクターが出てくる変わった作品かと思ったら、なーんだ、よくある“日常系”だったか」という油断。その不意を見事に突かれた気分だ。なんだか表面の雰囲気とは裏腹なディストピアが見え隠れする。といっても『けものフレンズ』序盤展開に感じた不穏とも異なり、もっと身近な、足下どころか自身の中にあるのかもしれない意識そのものに対する不穏さ。「あれ…?もしかすると、この作品。何かの隙に、こちらの意識そのものを問われることになるかもしれない?」という生々しさ。 この物語の社会は多様性への許容を思想教育や矯正という手段によって実現しており、そのことに座り心地の悪さを感じる。しかし一方で、それが徹底した平等性を実現し平和な社会を築いていることも事実だ。数年前の作品であるが『PSYCHO-PASS サイコパス』や『新世界より』と同じく、薄氷の上に成立している社会である。薄氷であるゆえに、それは多様性に対して自分が持ち得ている許容への問いかけそのものであるのかもしれない。いまや世界中のあらゆる社会が突きつけられている命題だ。 思い返せば『けものフレンズ』も多様性の許容が作品世界を覆っていた。フィクションやファンタジーにとっても、もはや目を背けられないテーマであり時代性。この作品世界の彼女たちからすれば、わずかな差異しかないにもかかわらず、多様を受け入れられない者がいる僕らの社会の方がディストピアに見えるのかもしれない。