Mar 25, 2023 column

正しさとは一体何か‥‥松山ケンイチと長澤まさみが熱演で介護社会に問う『ロストケア』

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10年越しで映画化した前田監督の執念

 本作を10年越しで映画化したのは、2021年10月に『そしてバトンは、渡された』と『老後の資金がありません!』が同週公開され、どちらもヒットさせた前田哲監督。今年は『ロストケア』の他にも、広瀬すず主演の『水は海に向かって流れる』(6月9日公開)、神木隆之介主演の異色時代劇『大名倒産』(6月23日公開)という注目作が控えている。

 大泉洋と三浦春馬が共演した『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』(18年)も話題となった。『そしてバトンは、渡された』では家族の絆の在り方を問いかけ、『老後の資金がありません!』では高齢化社会を題材にエンタメ化してみせた。『こんな夜更けにバナナかよ』では障がい者と介護ボランティアとの関係性を掘り下げていった。前田監督がこれまで描いてきたテーマ性が、本作では見事に集約されている。

 2013年に刊行された原作小説『ロスト・ケア』を、前田監督はすぐに読み、映画化を企画している。日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞するなど推理小説として高く評価された『ロスト・ケア』だったが、映画化は容易ではなかった。介護問題や格差社会といったシリアスな題材に加え、高齢者をターゲットにした連続殺人をめぐる物語ゆえに、なかなか配給会社が決まらないという状況が続いた。

 前田監督の『ドルフィンブルー フジ、もう一度宙(そら)へ』(07年)に主演した松山ケンイチが早くから斯波役に内定していたが、配給会社が変わる度に前田監督は脚本を書き直すという作業を重ねることになった。映画『ロストケア』の製作準備を水面下で進めつつ、前田監督はヒット作を残すという実績づくりを着々と続ける。

 日活・東京テアトルの共同配給という形で、ようやく映画化が正式に決定する。小説版の主人公は男性検事・大友秀樹だったが、日活の有重陽一プロデューサーのアイデアで、女性検事・大友秀美となり、長澤まさみがキャスティングされた。松山との初共演を、長澤が望んでの出演決定だった。

 大友検事が女性になったことから、映画『ストロベリーナイト』(13年)などを手掛けた脚本家の龍居由佳里が共同脚本として参加。また、長澤まさみ主演の「コンフィデンスマンJP」シリーズのカメラマン・板倉陽子が撮影を担当している。よりエンタメ度が高く、女性的視点を盛り込んだエモーショナルな社会派サスペンスに仕上がっている。

南米の先住民が言い伝える民話が独自のモチーフに

 映画化にあたっては、もうひとつ大きなハードルがあった。2016年に神奈川県相模原の知的障がい者施設で起きた連続殺傷事件だ。原作小説はこの衝撃的な事件が起きる3年前に執筆されたフィクションだったが、映画化は慎重を期することになった。

 だが、前田監督は簡単には諦めない。妻夫木聡主演作『ブタがいた教室』(08年)は映画化するまでに、13年の歳月を費やしている。前田監督の執念が結実した作品だった。妻夫木扮する小学校の教員と小学生たちが1年間大切に育てたブタを食べるかどうかを徹底討論する『ブタがいた教室』も、介護問題に向き合った『ロストケア』も、生命の重さを問いかける作品という点で共通している。

 原作小説を脚色する上で、前田監督は斯波のキャラクター像もかなり修正している。原作の斯波は、ある種のカリスマ性を持った確信犯だ。みずからが逮捕され、法廷に出ることで介護問題の過酷な実情を世間に訴えようとする。法の正義を揺るがす、非常に厄介な存在だ。

 映画の中で松山ケンイチ演じる斯波は、もっと人間味のある、血の通ったキャラクターとなっている。髪が真っ白になるほどの過酷な介護体験をした斯波は、他人の痛みを理解し、切実に受け止めようとする。介護問題で疲弊した一家を救うために、自分の手を汚すことを厭わない。もしも、自分が介護する立場だったら、介護される側になったら‥‥。小説上のフィクショナルなキャラクターから、介護問題を自分ごととして考えさせる等身大の人間像に変わったと言えるだろう。

 劇中、シングルマザーである洋子(坂井真紀)が母親と同居する家では、洋子の娘が一冊の絵本を熱心に読んでいる。南米アンデス地方で暮らす先住民たちが言い伝える民話をベースにした「ハチドリのひとしずく」だ。山火事が起き、森で暮らす動物たちはみんな逃げ出してしまう。小さな一羽のハチドリだけが、川から一滴の水をクチバシで運び、山火事を消そうとしている。ハチドリは何度も何度も繰り返す。逃げ出した動物たちは、そんなハチドリのことを笑うが、ハチドリは言う。

「私は、私にできることをしているだけ」

 原作で取り上げられた聖書の「黄金律」は映画でも大きなモチーフとなっているが、「ハチドリのひとしずく」は前田監督が盛り込んだ映画だけの独自のモチーフだ。映画版『ロストケア』の「隠れテーマ」として注目したい。とても短い物語なので、機会があれば「ハチドリのひとしずく」もぜひ手に取ってみてほしい。