9月30日、全156話を駆け抜け、最終回を迎えた、朝ドラこと連続テレビ小説『ひよっこ』(2017年4〜9月)。高度成長期、お父さんの突然の失踪によって、茨城から東京に働きに出てきた女の子みね子(有村架純)が、たくさんに人たちとふれあった4年間の物語の最終回、みね子は結婚という幸せを獲得した。記憶喪失になったお父さん(沢村一樹)の記憶が戻るのかと思いきや、劇的な展開はなく、ほんのちょっとだけ前進しているくらいにとどまった。最終週で歌われた「365歩のマーチ」の「3歩進んで2歩下がる」くらいのささやかさだ。
「ひよっこ」は最初から一貫して、日々の暮らしを丁寧に描くというスタイルで、登場人物は、誰一人として特別な何かをもった人はいない。とりわけ、主人公は、大きな夢や目標もなく、日々を生きることにせいいっぱい。漫画家が、彼女を主人公のモデルにしたら、地味すぎて困ってしまうほどだが、彼女はマイペースだ。従来の朝ドラに多かった、主人公が大きなことを成し遂げるまでを描くものとは一線を画した『ひよっこ』。
なぜ、こういう物語を描いたのか。
朝ドラ論考本『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書)で、『ひよっこ』がはじまる前にインタビューしたご縁で、脚本家・岡田惠和さんが最終回を終えての総括インタビューを受けてくださいました!3回にわたりお届けします。
第7回 『ひよっこ』脚本家・岡田惠和氏に聞く(その3)
なぜ、節子がふたりいるのか
──岡田さんのラジオ番組にゲストで出られた宮本さんが、すずふり亭のお客さんひとりひとりに設定を考えていたという話をされていましたが、岡田さんがささやかな日常を描かれるのと同じく、俳優の方々もささやかな部分を大事にされているんですね。話は変わりますが、世津子の本名の節子と、省吾(佐々木蔵之介)の奥さんの節子と同じ名前が出てくるのはなぜなんでしょうか? 省吾の相手役を愛子(和久井映見)か?世津子か? みたいなミスリードを狙ったのですか?
それはないです。世津子は芸名で、本名は節子で、省吾の妻と全く同じ名前であることから、彼女のアイデンティティが名前の文字を変えられることでどうなったのかっていうことを語るところがあったのですが、台本が長くてカットされて、名前の話は時子に集約されました。
──同じ名前を出すって、面白いトライですね。
そのほうがちょっと字を変えている感じのニュアンスが出るかなあと思って。今回、芸名に関して書いてみたかったんですよ。現代では、そんなふうに思わないのかもしれないけれど、当時、自分の子供が違う名前になるっていうのは、本名を否定されることだから、家族にとっては重大なことなんじゃないかなと思って。
──それも養子に行くことにも近いことではないですか。そういえば、世津子も叔父叔母のところに引き取られていますね。
そうですね。まあ、当時は、基本、芸名が多かったですからね。
──昔の芸能人ってかなり変わった芸名をつけていますよね。
本名を明かさないし、年齢詐称だってざらですよ。いまだったら、Twitterで同級生がつぶやいたら1秒でバレちゃう(笑)。
──昔は、いろいろな事情が隠せたんですよね。
グレーなことを飲み込むというか。世の中のある種曖昧なことを許容することは、世の中の余裕と関係があると思いますけれど、当時は、そういう空気があったと思います。例えば、実と節子が一線を越えたか否か問題になったとき、いまの空気だったら川本世津子はアウトでしょう。でも、あの頃は、芸能人に愛人がいることは、ある種の特権のような感じで、いまよりもグレーになっていたと思うんです。それが正しいのかどうかは別として。
──芸のためっていう考え方がありましたよね。富さん(白石加代子)のような人もふつうにいた。
富の恋愛の話は、批判の声が来るかと思いましたが、白石さんの存在感で、むしろ応援モードでした(笑)。鈴子さんが、若い人にちゃんと話せって言うのも、このドラマだから、宮本さんと白石さんだからできたと思いますね。