池ノ辺直子の「新・映画は愛よ!!」
Season18 vol.03 第30回 東京国際映画祭 フェスティバル・ディレクター 久松猛朗 氏
映画が大好きで、映画の仕事に関われてなんて幸せもんだと思っている予告編制作会社代表の池ノ辺直子が、同じく映画大好きな業界の人たちと語り合う「新・映画は愛よ!!」
第30回東京国際映画祭フェスティバル・ディレクターの久松猛朗さんに、映画業界に入るきっかけやその後の映画にまつわる数々のお話を伺いました。
- 池ノ辺直子 (以下 池ノ辺)
-
久松さんは大学卒業後に松竹に入社されるんですけど、昔から映画マニアだったんですか?
- 久松猛朗 (以下、久松)
-
マニアではないです。
学生の頃、僕は金がないから毎日、高田馬場駅から大学まで歩いて通っていたんですけど、その道すがらに早稲田松竹という名画座があって、あそこは3本立てとか2本立てで映画を上映しているでしょ、そこで映画を見ていた。
で、4年生になって就職活動をしなくちゃいけないんだけど、他の人のように会社訪問に行ったり、散髪したり、スーツを買ったりという気が全く起きなくて、試験で受けられる企業はないかなと当時の就職課、今でいうキャリアセンターの求人情報を見に行ったんです。
- 池ノ辺
-
なるほど。
- 久松
-
東宝さんとか東映さんは当時、縁故採用だったんですけど、唯一、試験で採用していた映画会社が松竹で、その松竹も6年ぶりの採用だったんです。
というのも当時の映画業界は斜陽と言われていた状況からようやく抜けようとしていた時だった。
- 池ノ辺
-
1970年代の終わりごろかしら?
- 久松
-
自分のことはよく覚えてないなあ、計算してください(笑)。
- 池ノ辺
-
他にはどういうところを受けたんですか?
- 久松
-
受けたのは松竹だけ。
他の会社は訪問もしていないし受けてもいない。
- 池ノ辺
-
そんなすごい話がありますか(笑)。
流れに乗った感じですね。
- 久松
-
新入社員になって初めてわかったんだけれど、松竹はその年、12人、新規採用したんです。
同期はみんな変な奴ばっかりでしたね(笑)。
なるほどと思いました。
- 池ノ辺
-
変なやつ!そういう基準だったんですね。
最初はどこの部署に配属されたんですか?
- 久松
-
新入社員は全員、最初は映画館に配属されるんです。
僕は丸の内松竹という洋画専門の劇場に配属されました。
『アバ・ザ・ムービー1977』 とかピンクフロイドの『ザ・ウォール』とか音楽のドキュメンタリーを上映していましたね。
半年して、今度は池袋松竹という邦画の専門館に移って、当時は立ち見がOKだったから、お正月になると、山田洋次監督の『男はつらいよ』を見にお客さんが押し寄せて、ドアが閉まらないくらい人が入った。
で、毎週、必ず来る人がいるんですよ。
- 池ノ辺
-
寅さんに会いに来る感じ?
- 久松
-
寅さんだけじゃなくて、どんな映画だろうと、毎週、ビニール袋にパンをいくつか持って、右端の前から5列目に必ず座るという人とか、いろいろな人がいました。
- 池ノ辺
-
映画が生活の一部になっている人が多かったんですね。
- 久松
-
そう。
でも、邦画は当時、寅さんはいいけど、他の作品はなかなかお客さんが入らなくて本当に厳しい時代でした。
その後、子会社の経理部に異動したんだけど、退屈だから紙ヒコーキを飛ばしたりしてました(笑)。
- 池ノ辺
-
どこの映画会社もそうだけど、最初から華やかな部署には配属されないですよね。
色々な部署を経験して適性を見られる。
それでも辞めなかったのは、松竹さんが面白かったからですか?
- 久松
-
まあ、そういうものだと思っていたから。
次に宣伝部に移動となって、最初に就いた映画が、木下惠介監督の『父よ母よ!』(1980)という作品です。
その次が今村昌平監督の『ええじゃないか』(1981)、3本目が新藤兼人監督の『北斎漫画』(1981)というめちゃくちゃ濃いラインナップで。
- 池ノ辺
-
すごいじゃないですか!まだ、大船撮影所があった時代ですね。
当時の松竹の大ヒット作は何ですか?
- 久松
-
1977年に渥美清さんが金田一耕助を演じた野村芳太郎監督の『八つ墓村』が大ヒットして、野村監督は翌年に『事件』と『鬼畜』を発表していますね。
山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』も1977年で、寅さんも含め、これらは観客に愛された作品ですね。
ただ、僕はその後、興行と宣伝を兼務になった役員から、「お前、こんなところで何やってるんだ、宣伝やるのか興行やるのか?」とある時、聞かれたんです。
この方は僕と同郷の山口の方でちょっと目にかけてくれていたんですね。
- 池ノ辺
-
どちらを選んだんですか?
- 久松
-
僕は「興行の方を」と言って、劇場に戻されるんです。
- 池ノ辺
-
へえ ! 興行の方が面白かったということですか?
- 久松
-
うん、合ってるという感じもあったのかもしれない。
劇場って生身のお客様から直接お金をいただく場所でしょ。
お客さんのリアクションが肌でわかる。
当時は1本の作品をひと月ほど上映するじゃないですか。
中には、我々が見ても、つまらない映画だなと思うものもある。
そういう時でも、上映後、劇場の入り口出口で「ありがとうございました」と頭を下げるでしょ。
そうすると、出てくるお客さんの視線が痛いわけですよ。
- 池ノ辺
-
ああ!もう、刺すように見られるんですね(笑)。
- 久松
-
それは僕の原点になりましたよね。
お客様からの視線が。
- 池ノ辺
-
ダイレクトで。
- 久松
-
それも1日4回で一か月ずっと謝り続ける。
そうすると、映画ってやっぱり、多くの人に見てもらわないとダメだなと思うようになります。
当時はまだ巨匠と言われる人がまだ作品を作っている時代でしたけど、巨匠じゃない人でも、気分は黒澤明や小津安二郎だったんでしょうね。
興行で入る企画を考えること自体が下品だみたいな空気があったと思うんです。
作家主義ってことではないけれど、自分たちの思いや自分たちの表現を、アーティストとして突き詰めていくんだみたいな。
ATGで気鋭の作家が発表していた影響もあったと思います。
でも、産業として考えると、興行を無視することは映画産業が衰退することで、結局、給料が遅配されたり、ボーナスが出ないとかいろいろあった。
僕が入った年は映画産業としてはボトムの時代で、映画を作る側が想定する対象は評論家寄りだったり、海外の映画祭での出品だったりで、観客にどう見ていただいて、どう受けるかみたいな視線は抜け落ちていたかもしれません。
- 池ノ辺
-
その体験が久松さんの、観客にどう映画を見ていただくか、マーケティングを考えた映画作りへとつながっていくんですね。
- 久松
-
そうですね。
- 池ノ辺
-
なるほど。
では、次回も引き続き昔のお話聞かせてください。
(文:金原由佳 / 写真:岡本英理)
第30回 東京国際映画祭
今年、第30回を迎える東京国際映画祭(以下 TIFF)は、日本で唯一の国際映画製作者連盟公認の国際映画祭です。
1985年に日本ではじめて大規模な映画の祭典として誕生し、日本およびアジアの映画産業、文化振興に大きな足跡を残し、アジア最大級の国際映画祭へと成長しました。創立時から映画クリエイターの新たな才能の発見と育成に取り組み、アジア映画の最大の拠点である東京に、世界中から優れた映画が集まり、国内外の映画人、映画ファンが新たな才能とその感動に出会い、交流する場を提供します。
今年のオープニング作品は『鋼の錬金術師』、オープニングスペシャル作品は『空海~KU-KAI』、クロージング作品は『不都合な真実2: 放置された地球」となります。
チケットの一般販売は10月14日より開始中。
会期: 2017年10月25日(水)~ 11月3日(金・祝)[10日間] 会場: 六本木ヒルズ、EXシアター六本木ほか。
PROFILE
■久松猛朗(ひさまつたけお)
第30回東京国際映画祭 フェスティバル・ディレクター
1954年山口県下関市生まれ。78年松竹株式会社に入社。宣伝プロデューサー、映画興行部・番組編成担当等の勤務を経て86年 にアメリカ松竹「リトル東京シネマ」の支配人となる。89年 に東京へ戻り、興行部次長に就任。94年タイムワーナーエンターティメントジャパン株式会社に入社し、ワーナーブラザース映画の営業本部長となる。その後、松竹株式会社に再入社し、2001年取締役映画部門&映像企画部門を担当。03年に常務取締役に就任する。06年株式会社衛星劇場 代表取締役社長を経て、10年ワーナーエンターティメント・ジャパン株式会社に再入社。ワーナーブラザース映画 副代表となる。現在はマイウェイムービーズ合同会社 代表。