Mar 23, 2018

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岡村靖幸、日本の音楽シーンで輝き続ける“1965年生まれ”の異才

音楽シーンに天才がひしめき合っていた80年代は、ある意味、“1965年生まれ”の時代でもあった。10代デビュー組の尾崎豊(83年デビュー)や吉川晃司(84年デビュー)は、20才になった1985年にはすでに大活躍を始めていた。

彼らと同じ65年生まれの岡村靖幸は、86年、シングル「OUT OF BLUE」でデビューを果たす。もっともソングライターとしては、渡辺美里に「Lazy Crazy Blueberry Pie」などを、すでに85年に提供していた。トップレベルのスタジオに出入りするようになった岡村は、そのユニークなキャラクターで、レーベルメイトだった大澤誉志幸らに可愛がられ、吉川晃司や尾崎豊と知り合っていく。

レーベルメイトとしては大澤以外にも、佐野元春、渡辺美里、鈴木雅之、TMネットワークらがいて、ともにEPICソニーの黄金時代を築いていく。一方、バンドシーンでは85年、レベッカの「フレンズ」とハウンドドッグの「ff(フォルティシモ)」がブレイクして、バンドブームがスタートしていた。この目がくらむほどJ-POPやJ-ROCKが輝いていた時代の中で、ひときわ異彩を放ったのが、岡村靖幸だった。彼の才能は、それほど大きかった。

岡村がJ-POP史に刻んだ功績は、彼が発明したダンス・ミュージックによっている。80年代はマイケル・ジャクソンやプリンスが台頭し、ダンス・ミュージックに大革命が起こった。70年代末にヒットした映画『サタデー・ナイト・フィーバー』でそれまでのダンス・ミュージックは終わりを告げ、80年代にまったく新しい音楽として登場する。それまでは黒人のリズムやカルチャーを基に作られていたが、新しいそれは白人もコンピュータも巻き込んだものだった。人種も世代もテクノロジーも、R&Bもロックも越えたダンス・ミュージックは、またたく間に全世界に広がっていく。岡村はその新しいグルーヴを、日本でいち早くキャッチしたのだった。

もともとジェームス・ブラウンなど古典的なダンス・ミュージックに惹かれていた岡村は、若い感覚をもって、既成の常識やルールにこだわらず、新しい音楽観をスムーズに取り入れていった。デヴィッド・ボウイが「レッツ・ダンス」で示した新世代のダンス・ミュージックのコンセプト=都会生活のストレスを解放する音楽を、岡村は大歓迎した。またボウイの真意にすぐ共感して『VISITORS』を作った佐野元春が、岡村の近くにいたのは偶然ではないだろう。

87年、ファースト・アルバム『yellow』をリリースした岡村は、いきなりシーンのど真ん中に突っ込んでいく。この年の夏の“広島ピースコンサート”では尾崎豊と共演。直後に、阿蘇で行なわれた伝説のイベント“BEATCHILD”に出演。超個性的なパファーマンスで、一躍、注目の的となった。

88年にリリースしたアルバム『DATE』には「Super Girl」や「イケナイコトカイ」が収録されていて、岡村の作品のユニーク度が加速していく。

岡村の最新型ダンス・ミュージックの凄さに、最初に気が付いたのはハイティーンから20代にかけての女子だった。彼女たちはジェームス・ブラウンもプリンスも知らなかったが、岡村の音楽の中にある純粋さやロマンティックさに、キャーキャー大騒ぎしたのだった。ただし、男子からは敬遠された。岡村のナルシスティックな振舞いと、直接的過ぎるラブソングに、ついていけなかったのだ。しかし、だからこそ女子には、最初から真っ直ぐに届いたのだろう。

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