Jul 18, 2017 interview

第2回:僕の予告編を作る基礎となっているのは、フイルムで予告編を作っていたこと。

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小松

今はそういうことはしょっちゅうあるだろうけど、当時の僕は、同業他社に移るって倫理的にいけないと思っていて、辞めるとき、ちょっと嘘をついていたんですよ。

知り合いでファッション問屋みたいなことをやっている人がいるんで、その人に頼まれて、移ると。

前の会社はテレビ番組を作るのがメインで、映画の宣伝番組をよく、「なんとかスペシャル」としていっぱい作っていた。

例えば、『ジョーズ』の公開に合わせて、動物パニック映画をいっぱい特集する番組とか。

最後に『ジョーズ』を宣伝するような内容で。

池ノ辺

よっぽど、ネタがなかったのかしら(笑)?

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小松

そうだよね、テレビ側としては映画の映像を使えるし、映画会社としては作品の宣伝になるし、お互いにいいとこ取りみたいな映画番組でね。

他にも、シネマ通信とか、小森和子さんの番組とかいろいろありました。

また映画を放映する番組の最後には必ず淀川長治さんのような映画評論家さんが登場されて解説をされると。

で、当時はテレビ番組もフイルムで作ってた。

16ミリで撮影して、編集していて。

そういう会社だったんだけど、たまたま僕だけ、予告編を任されていたんだけど、会社としてはあまり力を入れてくれないので、自分としては不満があったのね。

なおかつ、家に全然帰れなくて、ずっと会社に泊まっていた。

池ノ辺

わかる。

私も会社で仮眠とって仕事をしていた。

小松

ネガ編集も自分でやっていたから、結局、作業が朝までになっしまう。

そういうこともあって辞めることにして、その時の上司が打ち明けられる人だと思って正直に「池ノ辺事務所に行くことにした」と話したんです。

そうしないと移った後、池ノ辺さんの方にも迷惑が行くからと思って。

そうしたら激怒されて、懲戒免職になっちゃったのね。

池ノ辺

え!知らなかった。じゃあ、退職金、もらえなかったんだ。

小松

退職金はどちらにしても多分そんなにもらえなかったと思う(笑)。

それで懲戒免職になって、各映画会社に、前の会社から「小松はうちとは関係ありませんから、関わらないでください」という手紙が送られたらしいんですけど、ありがたいことに、映画会社にとっては、僕がどこの会社に所属しようと、あんまり関係なかったんですよね。

どこにいようと、予告編を作るのは小松さんでしょ、と。

池ノ辺

それから30年(しみじみ)。

よく、海のものとも山のものともわからない小娘と一緒に独立してくれました。

その後、メンバーとなる小林取締役も大阪から東京に出てくる時に、家族の人から「そんな若い姉さんの会社にいくなんて大丈夫なの?騙されてるんじゃないの?」と言われたらしい。

小松

僕の家は、仕事とは関係ないんだけど、その前に一度、女の人に騙されたという苦い経験があって、結構用心深かったからね。

池ノ辺

「騙されてるんじゃないの?」と言われて、「騙してませんよ」と言ってなんやかんやと、30年経ったという感じよね。

小松

まあ、そうですね。

池ノ辺

でね、東宝の市川南さんがこの対談に来られた時に、「小松さんといえばアクション」と言われたんだけど、どういう流れでそうなったんでしたっけ?

小松

その前に、オカルト映画ブームがあったのね。

日本では1974年に『エクソシスト』がヒットして、1976年に『オーメン』が大ヒットして、B級も含めて、ホラーというより、当時はオカルト映画と言ってたんだけど、そういう作品がものすごくいっぱい上映されて、僕もたくさん手掛けたんですよ。

池ノ辺

それで小松さんが『死霊のはらわた』(1985)の予告編を作って話題になった。

小松

そうね、『マニトウ』(1978)とかね。

僕が業界に入る前に、『エクソシスト』の、一番怖いところ、首がぎゅっと回るところの予告編が話題になって。

池ノ辺

なったねえ、怖かった。

私は中学生くらいでしたもん。