Jul 14, 2017 interview

第1回:予告編オファーは、ストレートに怖い、もしくはちょっとふざけたいときだと僕宛にくる。

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池ノ辺直子の「新・映画は愛よ!!」

Season16  vol.01 株式会社バカ・ザ・バッカ 創立メンバー 小松敏和 氏

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映画が大好きで、映画の仕事に関われてなんて幸せもんだと思っている予告編制作会社代表の池ノ辺直子が、同じく映画大好きな業界の人たちと語り合う「新・映画は愛よ!!」

今回は特別企画として、株式会社バカ・ザ・バッカの創立メンバーで、元取締役専務の小松さんをお迎えして、普段、映画ファンの目にはよく触れてはいるけれど、作っている者の存在は決して表に出ない映画予告編の仕事について、迫りたいと思います。

→前回までのコラムはこちら

池ノ辺直子 (以下 池ノ辺)

話を聞くのは、身内でちょっと恥ずかしいのですが、弊社バカ・ザ・バッカの創立からのメンバーで取締役専務、私の大先輩、映画の予告編の生き字引、小松敏和です!

今年65歳の誕生日に定年退職のけじめをつけ、現在は残った仕事をちょこちょことやってもらっています。

来年あたりはバカ・ザ・バッカの初めての顧問として私の話し相手になってもらおうと思ってお願いしています、まだ返事はもらっていませんが・・・。

まずは、小松さん、定年退職、長い間お疲れ様でした。

そして、昨年は映画業界勤続40年、「映画の日」永年勤続功労賞受賞おめでとうございます。

ほんと、長かったですね。

小松敏和弘 (以下、小松)

本当にね(笑)。

池ノ辺

小松さんが映画予告編のディレクターになるにはいろいろ歴史があります。

大学では天体物理学者を目指して、物理学科に入りながら、映画好きの学生生活を送り、でもその後は、パラグアイに移住したりして、いろいろあって、私と知り合ったのは今から32年前くらい?。

小松

そうね、今はもう、なくなっちゃいましたけど、日本ヘラルド映画という配給会社があって、同じ新橋にあったテレビ制作会社にいたんです。

池ノ辺

武市プロダクションでしたっけ?

小松

そうです。

当時は、今と違って、会社のセキュリティについてうるさい時代じゃなかったから、打ち合わせと称して、映画会社のオフィスに行って、そこの人たちといろいろおしゃべりをするんですね。

その中で、「こんど、あの映画が公開するから、予告編作ってよ」ということになる。

池ノ辺

そうね~、フイルムで編集して予告編を作っていた時代ですね。

小松

そう、素材を借りるのに、いちいち、相手の映画会社に行って、フィルムを借りるんですけど、今みたいにネットを通してデータの送付ができないんで、自分の会社にいるより、映画会社にいる時間の方が長かった。

池ノ辺さんも行った先の映画会社によくいて、お互い面識はなかったんだけれど、同業者だということは知っていました。

ある時に、映画会社の人から紹介されたんですよね。

当時、女の人で予告編を作っている人はいましたけれど、多くが結構年配の、ベテランの人たちだったので、若い女の人は珍しいというか、池ノ辺さん以外には他にいなかったんじゃないかな。

池ノ辺

予告編だけじゃなく、映画の業界自体、若い女性が少なかった。

私は24、5歳で、CIC映画でハリウッドの作品を多く手掛けていたんだけど、ちょうど、ヘラルドに声をかけていただいたのが『ブレイクダンス』(1984)だったんです。

小娘が大きな作品をやらせていただいたのは今思えば不思議なチャンスの連続だった!!当時、小松さんはどの作品の予告編を作っていましたっけ?

小松

僕がその時、何を作っていたかは覚えていないけど、紹介されたとき、池ノ辺さんは、たぶん、『グローイング・アップ6/恋のネイビーブルー』(1984)というイスラエルの青春モノを作っていましたね。

1978年公開、ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフティー』に影響されて作られたというと面白い青春コメディーでしたね。

池ノ辺

エッチなやつだよね、あれは小松さんが作ったでしょ?

小松

いや、池ノ辺さんでしょ。

池ノ辺

え? 私? そんな昔から仕事してたんだ?

小松

青春ものだから、僕じゃなくて、若い女の人に頼んだんだなという記憶があるよ。

紹介されたとき、「池ノ辺さんは、歌って踊れる予告編のディレクター」と紹介されたから。

池ノ辺

ええ?私、歌って踊ってたのかしら、その時?

小松

当時、ヘラルドの人たちとよくカラオケとか行ってた。