とかく大人は「見ることで(視聴者側の)何かが変わる・変えた」作品に価値や意味を見いだしてしまったり高評価をしてしまいそうになる。親であれば優等生的な模範解答を示してくれる子供番組を望んでしまいたくなる。だが『どれみ』は視聴者の子供を変えようとするのでも模範解答を教えるのでもなく、4年間ひたすら彼女たちに「あなたは1人ではないし、あなたたちには未来がある」ということを描き、語り続けたことこそが大きな価値や意味だった。それも大人の視点位置から語りかけるのではなく、子供たちの視線の高さで真っ正面から向き合い、これを語り続けた。
それから約17年をへての、この『魔女見習いをさがして』だ。発表に驚き、タイトルに『おジャ魔女どれみ』を入れていないことに驚き、その後『どれみ』そのものの続編ではなく、「『どれみ』を見ていた、『どれみ』が好きだった3人の女性の物語」である事が発表されてまた驚いた。
公開前日は「明日は17年ぶりにどれみに会えるのか」とか考えたらいい歳にもかかわらずドキドキしてしまった。とても懐かしい友人に会うようなそんな気分。いや、30数年ぶりの小学校の同窓会前でもここまではドキドキしなかったのだからそれ以上だ。
そして初日の劇場。上映中、リアルタイム世代の女性客らはボロ泣きしていて、それが視界に入りつつ、やっぱり僕も泣いてしまった。
かつて『どれみ』が大好きだったことがきっかけで知り合った3人の女性。仕事でどんなに結果を示しても男の上司に手柄をとられ、しかもそれまでの努力をひっくり返されてしまうミレ。教師志望だが自分が本当にそれに向いているのかがわからないソラ。恋人のダメ男との関係がだらだらと続いてしまい絵画の勉強に進みたいことにも踏み切れずにいるレイカ。年齢も住んでいる場所もそれまでの人生も仕事もまちまちの彼女たちは、『どれみ』ゆかりの地への旅行を通し友情をはぐくんでいき、日々の中で直面している仕事や将来への悩みに向き合っていく。
登場人物が感じる『どれみ』を見ていたあの時に思い描いた大人とは違うところに来てしまったのかもしれないという現実。それをどうすればいいのかわからない悩み。彼女たちはそのまま『どれみ』を見ていた視聴者たちそれぞれの反映であり、彼女たちが立っている場所も悩みも大人になった視聴者たちがいる“今”だ。だからこれは今の若い女性の映画でもある。
本作の発表時に「なぜ『どれみ』たち自身のその後の物語ではなく、『どれみ』を見ていた子たちの物語にしたのか?」と不思議に思った。インタビュー記事などを読むと当初は成長したどれみたちを描く案もあったそうだ。が、かつて作り手が真っ正面から向き合った子供たちのその後を描くことも、作り手にとっては『どれみ』たちのその後と等価なのだろう。そういう映画だった。これはあの時の視聴者だった子供であった人たちに向けた作品だ。