Aug 25, 2019 column

京アニ事件から1ヶ月 暴力性にメディアはどう向き合うのか

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今なお困惑と混乱の時期は過ぎ去っていない。「わからない」というのは恐怖だ。その対象が理不尽であればあるほど、その不安と恐怖は増していく。だが、テロの本質というのは恐怖によって他者を支配しその精神を屈服させることにある。事件がもたらしたデマや、二次的な便乗犯に乗ることもまたしかりだ。それに飲み込まれ、踊ってしまうことこそあの理不尽な暴力の思う壺になってしまう。メディアも社会もあの事件にどう向き合うのか。その恐怖とどう戦うのかという課題に直面しつつある。そういう考えをもやもやと抱えたまま過ごしていた8月中旬。1つのTV番組を目にした。

事件から1ヶ月目となる8月18日に大阪の毎日放送(MBS)が報道特番として放送した『祈りの夏・聖地の声 ~京アニに伝えたい感謝の言葉~』。関西ローカルの番組であったが「TVer」で無料配信されており他エリアの人でも見ることが出来る。僕もそれで見ることが出来た。

『祈りの夏・聖地の声~京アニに伝えたい感謝の言葉~』
https://tver.jp/episode/61687040  (9月18日(水)23:59まで配信)

これは8月上旬に同局の情報・報道番組『ミント!』で全5回にわたり放送されたミニ特集の再構成版といった内容になる。こちらも同番組サイトで現在まだ配信されており、見ることが可能だ。

#1「響け!ユーフォニアム」編
https://www.mbs.jp/mint/news/2019/08/12/071439.shtml

#2「Free!」編
https://www.mbs.jp/mint/news/2019/08/13/071463.shtml

#3「氷菓」編
https://www.mbs.jp/mint/news/2019/08/14/071492.shtml

#4「けいおん!」「涼宮ハルヒの憂鬱」編

https://www.mbs.jp/mint/news/2019/08/15/071505.shtml

#5「聲の形」編
https://www.mbs.jp/mint/news/2019/08/16/071540.shtml

どちらも京都アニメーション作品の舞台となったいわゆる“聖地”を訪れるファンの言葉を中心として構成されている。『ミント!』版は各回を作品ごとにわけ、作品聖地の紹介とそこにまつわる地元の人々や訪れたファンたちが想いを語る言葉で構成。

特番はそれに加え、武本康弘監督や西屋太志氏をはじめとした公表をされた被害者の遺族や友人知人の声も取り上げ、「作り手であった彼・彼女らという人、そして彼・彼女らが手がけた作品」と「作品によって人生の何かが変わった受け手(ファン)たち」という、それぞれは面識すら無かった人々が作品によって繋がっていたこと、それが多くの人の人生をどう変えていたのかという構成になっている。

事件にまつわる特番・特集ではあるものの報道ドキュメントにおける構成のセオリーとも言える「事件そのもの(事件を伝えるニュース映像など)」については触れていない。事件取材の決めごととして遺族の話の聞くのではなく、勝手な想像で事件像を推理してみせるのでもなく、哀しみの声ばかりを取り上げるのでもない。喪われた人々と、彼らが作った作品によって人生の何かが変わった受け手(ファン)に絞り、そこに何が生まれたのかを浮き彫りにしようとしている。打ち込む何かを見つけた人、人生の進路を見つけた人、閉ざされていた状況に光がもたらされた人。様々だ。

作品が生み出す“力”というのは抽象的な概念だが、それをまとめ、具体的なものとして見せたのがこの特番であったと思う。その視点からは番組制作者の中にやはり京アニ作品を愛してきた人がいるのだろうと感じさせられた。その人が「メディアがわからない恐怖に向き合う戦い方の1つ」として、今、何を伝えなければならないのかと制作したのがこの一連の特集だったのではないか。僕にはそう思えてならなかった。

「音楽に国境は無い」とよく言われる。これは音楽に限らず、芸術全般におけることでもある。政治、社会、民族、言語も異なる国々の絵画や映画が人々の感情をふるわせている。物語性だけではなく、その映像表現そのものが胸を打つ。京アニ作品もその1つだ。「人気作品だったから」なのではなく、感情的に、映像表現的に、制作者の真摯さへの敬意などの全てが人々の胸を打ってきた。その結果「人気作品となった」のではないか。世界中から弔意が表明されたこともその証。作品の“魂”が多くの人の“力”となっている。いずれ再び立ち上がる京都アニメーションの作品は、おそらくこれからもそういった“力”を生み出していくだろう。

人は覚えている者がいなくなったときが本当の死であるとはよく言われる。反面、残り継承されていくものがあるうちは生き続ける。作品や作り手も同じだと僕は思う。受け手にどのように開けた人生があったのか、それによって力をもらった人たちがそれを活かし続けるのか。喪われた人たちが作った作品が残り続けることや、それを見続けることだけではなく、僕らファンがその“力”を抱えて生きていくことそのものもまた理不尽への戦いであり最大の拒絶だ。

事件について伝え続けていくことはメディアの使命だろう。だが、その“力”を紹介し、理不尽を生み出した者たちに「君のそれは無意味である」と突きつけることもメディアにやれることであるのかもしれない。MBSの番組でインタビューに答えていた人たち、いくつかの番組での解説、雑誌の後記で記されていた言葉からはそのことを気づかされた。

そして、僕らが貰ったそういった“力”が今度は少しでも京都アニメーションの復旧の手助けになればと思っている。

最後になりましたが、亡くなられた方々の冥福と、負傷されいまだ苦しみにある方々の回復を心からお祈りします。

なお、京都アニメーションによる劇場作品の多くを配給してきた松竹は、8月23日(金)より同社応援の企画として、日替わりで同社劇場作品の特集上映を新宿ピカデリーとMOVIX京都にて開催中。(詳細はそれぞれの劇場サイトを参照いただきたい)

また、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 – 永遠と自動手記人形 -』は予定通り9月6日(金)より公開されることが発表されている。
http://www.violet-evergarden.jp/sidestory/

「見る」応援とともに、亡くなられたスタッフへの追悼。そして自分がなぜこれほど京アニ作品に惹かれるのかを見つめ直してみたい。

文 / 岡野勇(オタク放送作家)