いわゆるゼロ年代の“セカイ系”美少女ゲームやアニメやラノベを思いだした人も多い。そもそもセカイ系という括りで作品が語られ論争のようなことが起きてきたとき、その中心にあった作品の1つが発表間もなかった新海誠による『ほしのこえ』だった。そのことから新海監督の壮大な原点回帰と感じた人もいるようだ。僕も鑑賞直後にはセカイ系としてとらえたのだが、時間がたつにつれそれがちょっと変わっていった。おそらくその理由は、『天気の子』があまりにも現実社会の描写に力を入れていたためではないかと思う。
新海作品はこれまでにも現実の風景を緻密な背景画と実写では不可能な光のコントロールによって“美しい風景”として描き出してきた。だが『天気の子』では歌舞伎町や池袋といった繁華街の雑多など、美しくはない東京の風景の描写が印象に残る。さらに書けばそういった“美しくない風景”と、新海作品従来通りの“美しい風景”のシーンに緩急をかなり強くつけている。
前者はもちろん現実世界を描く要素だ。後者はこれまでの新海作品においては日常の風景であったが、本作においてはファンタジックな風景に見える。そしてセカイ系と言うにはあまりにもこの現実世界の色が強い。あえて言うなら“セカイ系”的と言える部分はこの両者の狭間にあり、本作では描かれていないような気すらする。
現代東京の薄汚い風景というのはアニメで描くのはなにげに難しい。消費文明、過剰なまでの経済社会が丸出しで、心地よさという感情を拒絶する景色だ。アニメという映像の記号化をされたときにその印象はさらに強まる。
それでも本作においてこの“美しくない東京”が必要であった理由は、『君の名は。』公開後から全国で開催された『新海誠展』で展示されていた『言の葉の庭』企画時のメモにさかのぼるのではないか。それは前作『星を追う子ども』がなぜ観客に届かなかったのかという反省から、今の観客に届く作品を模索すること。『言の葉の庭』以降の新海作品のターニングポイントを示し宣言している重要な文章だった。
(僕の書いたものだが、参考として以下の記事をリンクしておく)
『君の名は。』に至るまでの新海誠の軌跡とは?『新海誠展』から読み解く
https://otocoto.jp/column/okano025/
この中で、ある有名監督の現代社会観に対して「共感を持てない」という批判も短く語られていた。思い返すとその有名監督はかねてからコンビニが並ぶ現代の都市風景に否定的で自身の監督作の舞台とはしてきていない。しかし『天気の子』は現代の若者。とりわけ作品がメインターゲットとする中高生を肯定する。彼らに共感し肯定し、彼らに届く作品とするために、観客である彼らを取り巻いている“美しくない東京”が必要であったのだろう。汚れた路地裏も、閉塞感のあるネットカフェやファストフードも。経済的な意味でだけではなく、精神的に豊かさを感じられない世代の息苦しさや環境。華やかに見えるが豊かさは実感できない。全編の多くで降りしきる雨もまたそういう閉塞感の象徴であるように感じられる。『言の葉の庭』の雨がある種の光を包んだ美しいキャラクターとして描かれていたのに対し、本作の雨はキャラクターというより彼らを閉じ込める壁や天井のような存在であり、同時に本来なら人間のチカラが及ぶはずもない神的な現象の象徴だ。
だが、そこが主人公である帆高や陽菜のいる社会であり、その彼らに見える半径数kmの社会がすなわち彼らの世界になる。帆高は何かの息苦しさから家出をしてきた。陽菜は弟との小さな幸せを維持したいが経済環境や社会の現実が立ちはだかる。通常、この年齢の若者を描く場合、多くの中高生にとっての社会である学校が舞台となるが、本作ではそれすらも描かれない。帆高たちは完全に社会・世界から外れた、あるいはこぼれてしまったところに存在している。