Mar 10, 2017 column

3月11日に想う『魔法少女まどか☆マギカ』の新聞広告が刻んだ記憶

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あれから6年が経つ。復興が進んだ場所もあればそうでない場所もある。原発事故は一向に終わりが見えない。“震災後”の状況は全く終わったとは言えない。 この6年間、エンターテインメントは多くの作り手たちが自分たちの考える、自分たちなりのやり方や表現で震災や復興に向き合った。 震災そのものを扱った作品も多く作られ、いくつかの実写映画はもちろん、人気となったNHKの朝ドラマ『あまちゃん』(13)などもそうだったし、アニメでは『Wake Up, Girls!』(14)は舞台を東北とし、主人公らが被災した際のことを語るエピソードがあった。 そして次第に、音楽もマンガも小説も映画もアニメも、震災を描くことから“震災後”に向き合いはじめた。 それは震災そのものを描いている作品という意味ではない。震災という巨大な出来事があって以降の僕らを取り巻いている空気や感情。ささいな意識。場合によっては社会のシステムなど。様々なものが比喩として持ち込まれていたり、反映がされていたりすることが感じられる作品だ。 とくにここ2年ほどでそれを意識していると感じる作品に出会う機会は増えてきたと感じる。おそらく、企画時に震災とぶつかった作品がちょうど公開される時期になったというのも大きいだろう。製作期間が長いアニメなどはそれが顕著だ。

『虹色ほたる ~永遠の夏休み~』(12)は作中で起こる出来事に震災からの影響を感じた観客も多かった。制作時期を考えれば偶然ではあるが、しかし制作中に起こった震災に作り手が葛藤したことは完成した作品から窺えた。宮崎駿監督の『風立ちぬ』(13)もそうだ。 そして昨年の『君の名は。』や『この世界の片隅に』。震災を描いた作品ではないが、作り手が企画中に起きた震災と向き合わざるをえなかったことは語られているし、実際、作品からもそれが感じられる。そして「3.11以後映画」の象徴とも言えるほどの作品であり、大ヒットした『シン・ゴジラ』。偶然であるのか、それともそのことにも理由があったのかはわからないが、こう振り返るとこれら昨年のヒット映画はいずれも「3.11以後」の作品であった。 深刻な姿勢ばかりでは無い。アニメ『銀魂』は11年10月31日放送の第232話『忘れっぽい奴は忘れた頃にやってくる』で、震災報道中に僕らが幾度となく目にしたACのCMパロディを入れた。もっともこれは原作マンガからしてなのだが、あのいかにも『銀魂』らしい「笑い飛ばしてやる」姿勢は気持ちが良かった。これだって向き合った結果だ。(このエピソードは別の理由で系列局やBSでの放送がされなかったことが話題になったが、それは脱線するのでさておこう)

おそらくこれからも、アニメにおいてもそういった“震災後”に向き合い、もしくは意識した作品は出てくるだろう。エンターテインメントがそういうことを持ち込むことに拒絶感を持つ人もいるかもしれないが、あれだけのことがあって、それを全く無視することの方がたぶん難しい。無視をしている作品は、「向き合った末に、この作品では無視をする」という姿勢をしているのだろう。どうしても作り手たちはもうそのことから逃れられなくなった。僕も作り手としても観客としても、それに向き合っていきたいと思っている。

6年を経ても、いまだにネットなどであの『まどか☆マギカ』最終回放送の広告の画像を目にすると僕は涙が出てくる。軽く感情が不安定になるが、何も感じなくなることの方が恐ろしい。僕にとっては忘れないためのスイッチだ。むしろ恐れるべきはそういった作品が出てこなくなり、無視をすることが簡単に出来るようになってしまうことだ。 往々にして、そういう風化をした最悪のタイミングで“次”は起こる。エンターテインメントに出来ることも役割も、たぶん僕らが考えている以上に大きいのだと思っている。

文 / 岡野勇(オタク放送作家)

関連書籍

『魔法少女まどか☆マギカ』MagicaQuartet (原作), ハノカゲ (作画) / 芳文社

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