Jan 27, 2023 column

第95回アカデミー賞 主要部門9ノミネート 『イニシェリン島の精霊』断絶の一撃によって切り拓かれた「陽気な悲劇」

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死神と炎

『イニシェリン島の精霊』の精霊とは誰なのか?精霊(Banshee)の声が聞こえたら死者が出るというアイルランドの言い伝えを本作で司ることになるマコーミック夫人は、おせっかいな老婆として登場し、やがて死神の相貌を帯びていく。シボーンは川の対岸にいる死神の不吉な手招きを受けるが、不意に現れたドミニクによって死の国への手招きを免れている。本作では手を振る行為、さよならの身振りは不吉な身振りとして反復される。精霊=死神=老婆が直接手を下すことはない。精霊は予言者、観察者として、この島のすべてを傍観している。

コルムが精霊に関する曲を作っているのが象徴的だ。コルムは音楽によって精霊の謎を解き明かそうとしている。しかしコルムはバイオリンを演奏するための指を自分が自分でいるための人質のように犠牲にしている。コルムの矛盾する行動に、本作で不気味で不可解なインパクトを与える「指」のイメージの答えがあるのかもしれない。精霊の秘密は解き明かしてはならないものなのだ。そして本作では精霊=死神のイメージと同様に、燃え盛る炎のイメージも重要なモチーフになっている。

『セブン・サイコパス』以降のマーティン・マクドナーは、炎のイメージに取りつかれている。娘を殺した犯人を捕まえられない警察への批難が記された『スリー・ビルボード』の広告看板は、放火によって炎に包まれる。ミルドレッドが身の危険を顧みず消火作業にあたるとき、彼女の顔に浮かび上がるのは広告看板がつないでいた娘への思い、その象徴を失ってしまうことへの危機感だ。ミルドレッドは警察署に向かって無数の火炎瓶を投げることになる。

そしてマーティン・マクドナーの兄ジョン・マイケル・マクドナーが、アイルランドを舞台に撮ったブレンダン・グリーソン主演の映画『ある神父の希望と絶望の7日間』(2014)においても、町の象徴、中心としての教会が炎に包まれている。海岸での決闘シーンが用意されていることも含め、この作品と『イニシェリン島の精霊』との関連性は非常に深い。そして炎のイメージは、『イニシェリン島の精霊』に決定的なイメージとして再び登場することになる。

マーティン・マクドナーにとって炎とは何を意味するイメージなのか?象徴化された建築物が燃え崩れゆくイメージは、それ自体で発光する信念の光なのかもしれない。マーティン・マクドナーは、炎による破壊のイメージの美しさ、残酷さを記憶されるべき光の遺産として描いている。

芸術の遺産は後世に残るが、優しさで歴史に残る者はいないと言ったコルムと、その意見に激しく反論したパードリックの言葉を思い出す。どちらも正しい意見だ。本作の炎の光は異なる意見、その断絶の間にそびえ立つ。価値観へのジャッジではない。マーティン・マクドナーはスクリーンに美しく燃え盛る炎を介して、その光があったことをただただ忘れるなと観客に投げかけているのだ。

文 / 宮代大嗣

作品情報
映画『イニシェリン島の精霊』

本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる。急な出来事に動揺を隠せないパードリックだったが、理由はわからない。賢明な妹シボーンや風変わりな隣人ドミニクの力も借りて事態を好転させようとするが、ついにコルムから「これ以上自分に関わると自分の指を切り落とす」と恐ろしい宣言をされる。美しい海と空に囲まれた穏やかなこの島に、死を知らせると言い伝えられる“精霊”が降り立つ。その先には誰もが想像しえなかった衝撃的な結末が待っていた‥‥。

監督・脚本:マーティン・マクドナー

出演:コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、ケリー・コンドン、バリー・コーガンほか

配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン

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公式サイト bansheesofinisherin