Jan 27, 2023 column

第95回アカデミー賞 主要部門9ノミネート 『イニシェリン島の精霊』断絶の一撃によって切り拓かれた「陽気な悲劇」

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陽気な悲劇

『イニシェリン島の精霊』は、マーティン・マクドナーにとってアカデミー短編映画賞を受賞したブレンダン・グリーソン主演『シックス・シューター』(2005)以来のアイルランドを舞台とした映画となる。そしてかつてマーティン・マクドナーにはロバート・フラハティによる傑作『アラン』(1934)の主人公を勝ち取るために野心を燃やす戯曲『イニシュマン島のビリー』を発表した経緯もある。当初「アラン諸島三部作」の最後の作品となる予定だった『イニシェリン島の精霊』は、未上演に終わっている。

ロバート・フラハティの『アラン』は荒れ狂う海の上でボートに乗った住人がサメと戦う様子を記録する傑作ドキュメンタリーだ。ランプ用のオイルを確保するために、住民たちは小さなボートで危険極まりないサメ狩りをする。『アラン』において水面にゆらめくサメの神秘的な美しさは、同時に恐怖でもある。この作品のサメの神秘性に惹かれることは、恐怖に魅了されることに等しい。

『イニシェリン島の精霊』における寒空と海が、美しさと同時にひどく無情な空に思えるように。アラン諸島の空が冷えきった沈黙の空気を放てば放つほど、口数の多いパードリックの悲しみは傷を広げていく。そしてマーティン・マクドナーは、キャラクターを喜劇的に描きながら悲劇の射程を広げることが得意な映画作家でもある。いわば「陽気な悲劇」。

映画の冒頭でパードリックは美しい島の景色を背景に、軽快な足取りでコルムの家に向かっていく。家に着いたパードリックは閉ざされた窓枠からコルムの姿を確認する。撮影監督のベン・デイヴィスによると窓枠やドア枠の内側と外側から見える世界は、ジョン・フォードの西部劇からインスピレーションを受けているという。本作では窓枠に切り取られた世界が、ときに喜劇とも悲劇とも受け取れる様相を帯びている。

パードリックは声を掛けても応じる素振りのないコルムの髪を窓枠越しに撫でる(モニターの映像を撫でるように)。窓越しにアップで映るパードリック=コリン・ファレルは、特徴的な眉の動きのせいか古典映画の喜劇役者のように豊かな表情をしている。そして映画が進むにつれパードリックとロバのジェニーをはじめとする動物たちの顔が、どこか似ていることに気付かされる。窓の外から心配そうな顔を覗かせる馬。悲劇的な状況にコミカルな細部が顔を覗かせることで本作は独特の軽さを獲得していく。

陽気な悲劇の中心にパードリックがいて、バリー・コーガンが演じるドミニクがいる。『グリーン・ナイト』(2021)における悪戯な妖精のような演技が見事だったバリー・コーガンは、本作においても陽気なカオスを作品にもたらしている。次に何をするか分からない不安定な挙動は、ドミニクのキャラクターは繊細な感傷性と常に反転の関係にある。ドミニクは警官の父親から暴力を振るわれて育った。地域の腫れ物である彼がパードリックとの親交を深め、シボーンの前で夢が消えてしまったと告げるシーンに胸が張り裂けそうになる。