Jan 27, 2023 column

第95回アカデミー賞 主要部門9ノミネート 『イニシェリン島の精霊』断絶の一撃によって切り拓かれた「陽気な悲劇」

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2人のおじ様による喧嘩が何故これほど面白いのか?傑作『スリー・ビルボード』を撮ったマーティン・マクドナーによる『イニシェリン島の精霊』は、酒場で「決闘」を申し込むことを含めて、他愛のないように見えた喧嘩を予断を許さぬ展開へと持っていく。銃を持たない西部劇。しかも軽やかさの中に暴力の気配を漂わせている。

マーティン・マクドナーはこれまでの作品においてもジャンルの定石を借りて脱構築してきた。『イニシェリン島の精霊』は『スリー・ビルボード』の達成以後に、アイルランドに戻った映画作家と親しい仲間たちの挑戦、挑発であり、その試みは新しい地平=陽気な悲劇を切り拓くことに大成功している。

断絶の一撃

斧を振り下ろすような一撃。初老のコルム(ブレンダン・グリーソン)が、年下の友人パードリック(コリン・ファレル)に向かい「ただお前が嫌いになった」と言い放つ。アイルランドの架空の島を舞台にする『イニシェリン島の精霊』は、まるで子供のような大人の喧嘩で始まる。閉ざされたドア。パードリックは海岸沿いにある家の窓からタバコを吸っているコルムの姿を見ることしかできない。

普段周囲の人間から「鈍感」呼ばわりされながらも、ただ事ではないことを察知したパードリックは、これが決定的な断絶になることをまだ知らない。共同生活を送る妹のシボーン(ケリー・コンドン)からは、もう嫌いになったんじゃないの?と茶化されるが、彼女の予言は的中してしまう。

島の海岸沿いに積み上げられた石垣のように固いコルムの意志。コルムは残り少ない人生を充実に過ごすことを願っている。家に来ては2時間もロバの排泄物についての話をまくし立てるパードリックにコルムはうんざりしているのだ。しかしパードリックはなぜ絶交されてしまったのか分からない。

コルムによる絶交はパードリックの秩序を破壊する。パードリックはコルムに拒絶されたこと以上に自分が退屈で詰まらない人間だと思われていたことにも傷ついていく。岩のように固いコルムの態度が、パードリックを内側からゆっくりと破壊していく。失望から怒りへ。そして恐怖がそこに加わっていく。

変わらない田舎の風景、いつものパブ。この狭い島では人々が向かうスペースは限られている。絶交したところで、この島でお互いを視界に入れずに残りの人生を過ごすことは不可能なのだ。島を出ない限りは。生涯をこの島で暮らすことに満足しているパードリックにとって、コルムとの断絶は世界の秩序を失うことに等しい。最初は子供の喧嘩のように思えた大人たちによる感情の交錯は、徐々に取り返しのつかない展開を生んでいく。

コルムの態度はパードリックが期待するような「エイプリル・フールの悪ふざけ」ではなかった。1923年の4月。アイルランドでは内戦が続いており、対岸の本土からは銃声や爆発音が聞こえる。民間人同士の争いは、近くて遠いこの島に恐怖の影を波及させている。音楽家のコルムが残された人生において芸術的な遺産を残すことを考え始めたのは、内戦の状況と無関係ではないだろう。パードリックとコルムの争いは、かつて共に過ごした「同士」の争いという点で、この内戦のメタファーになっている。

パードリックは突如にして失われた秩序を取り戻そうとする。秩序は彼=コルムを取り戻すことによってもたらされる。パードリックにとって、それは使命となる。しかし彼の思いはことごとくコルムに拒絶されていく。

前作『スリー・ビルボード』(2017)でレイプされ殺害された娘の復讐を誓うミルドレッド=フランシス・マクドーマンドの鉄の意志に貫かれた面構えがそうだったように、本作のコルム=ブレンダン・グリーソンの顔には梃子でも動かぬ強固な意志をスクリーンに発露する。この静かなる男に触れてはならない。いつものパブに緊張が走る。コルムはもし今度近づいてきたら自分の指を切り落とすとパードリックに告げる。コルムは危険なオーラを内側にも外側にも充満させていく。