Apr 18, 2019 column

30年間色あせなかった、平成を象徴した2つのアニメ

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まもなく新たな元号の令和元年となる。僕にとっては社会に出てからと平成30年間はほぼ被るので、アッと言うまであった気すらする。その30年前。平成元年(1989年)にはどのようなアニメがあったのかと調べなおしてみると、平成元年前後はとりわけアニメ映画においては今なお語られる名作がいくつも登場した時期で、昭和/平成という元号、80年代/90年代という西暦。どちらで考えても大きな歴史の節目であったと言える。節目であるというのは、その作品が登場したことで何かが変化したことや、その前後を区切る点となることを示すが、とりわけ昭和63年(1988年)に『AKIRA』が。翌平成元年(1989年)に『機動警察パトレイバー the Movie』が公開されたことは、今になって振り返ると一つの象徴であったと思う。

昭和最後の年は64年だが、わずか1週間しかなかったこともあり、まるまる1年間という時間が存在した昭和63年を「昭和最後の年だった」という認識でいる人はおそらく少なくないのではないかと思っている。その「思い返せば昭和最後の年だった」年に公開された『AKIRA』は、後になって(特に近年になって)考えたときに、昭和アニメの行き着いた先の解答だったのではないか。

昭和に登場したアニメーションは数十年という時間の中で“リアリティ”というものへの挑戦が絶えずアップデートされてきた。実写そのままを求めるのであれば実写でいい。ではアニメーションならではのリアリズム、リアリティは何であり、それを画でどう生み出し描くのか。日常での仕草や動作。所作や感情。さらには設定の裏打ちで描写が高められていった中、『AKIRA』ではさらにそこに“映画的な緻密さ”が加わった。大友克洋といえばマンガ界で昭和50年代に起こったニューウェーブの中心にいた作家だが、アニメーションにおいても新たな時代を開いた。当時、僕は映画学校の生徒であったが、普段はどのような映画もかなり厳しい目で見ていた友人が「全てのカットがあまりにも“映画”で驚いた」と絶賛していたのを覚えている。

“映画的なるもの”というのが何を表すのかは説明が難しいが、それまでにも映画として評価されるアニメはすでに何本も登場している。大友はさらにそこに、実写映画的でありながら実写映画では困難(アニメだから可能)なカメラワークや、「それを写せばこうなるハズだ」を表現した。例えば冒頭のバイクチェスにおけるテールランプの流れる光もそうで、今では珍しくもないが当時はかなりの驚きであった。

公開時の風潮で「サイバーパンク」とジャンルわけされたが、作品にちりばめられた記号の数々には意外なくらい(それはもちろん意図的であるが)“未来的”“SF的”なものがない。

キャラクターの名前もコミックの連載開始時の時点でも遙か昔のマンガであった『鉄人28号』が元ネタであるし、登場するガジェットでも目に見えて未来的で既存に類似する物がないデザイン性を見せるのは金田の駆るバイクくらいだ(「フライングプラットフォームは?」というと、あれは1950年代に米軍が試作した同名・同コンセプトの物が元ネタになっている)。

描かれている社会描写も未来っぽさはなく、大友が青春期を過ごした70年安保あたりの時代が強く反映されている。劇中の時代こそ公開時から30年後の今年(2019年)だが、描写はむしろ20年、30年逆行しており、昭和の匂いの方が遙かに強い。 しかしそれだけ古い昭和ぽさを全面に出していながら、『AKIRA』はそれまでに類のない、未来を描いたSF作品だった。SFにおいて驚きや感動を表す概念に「センス・オブ・ワンダー」というものがあるが、古き昭和臭すらをも未来的なものとしてしまったことが、この作品の「センス・オブ・ワンダー」の1つだったのかもしれない。

映像表現としての驚きのみならず、昭和の戦後日本をカリカチュアした世界観も、『AKIRA』が昭和アニメーションの到達点であり象徴だったのではないかと思わされるのだ。

そして翌年に公開されたのが『機動警察パトレイバー the Movie』だ。初期ビデオアニメ版は昭和と平成をまたいでのリリースで、この劇場版も平成元年を代表するアニメ映画だった。『パトレイバー』はコミック版なども含めたスタートから数え、昨年から「30周年」のイベントなどがいくつか行われている。

『パトレイバー』が時代の象徴であると思うのは、押井守によるこの劇場版が描いたことのみならず、企画の経緯や、メディアミックスプロジェクトとしての作品展開。その後に作られた劇場版や、TVシリーズへと繋がっていくファンの広がりと。作品やシリーズ、プロジェクトそのものといった様々な要素が「平成アタマの作品でありながら、その後の平成アニメの有りようを表していた」と思うからだ。

製作面では、後にコミック版を手がけるゆうきまさみらの「見たいアニメを考える」という企画ごっこからベースが生まれたという経緯は、受け手だった世代が送り手となった『超時空要塞マクロス』の流れのさらに延長だ。そして、アニメに限らず平成30年間の映像コンテンツ産業の中心となり牽引していくのは、こういったゆうきらの世代になる。

当時、1万円前後が主流であった中、4,800円という破格の安さでリリースされたビデオシリーズはビデオアニメ時代を本格化させ、TVと映画以外にプラットフォームがあることへの指針を示した。大々的にメディアミックスをうたっての展開と宣伝の成功は、幾多の後続を生み出すこととなり、平成の“当たり前の作品展開手段”にもなった。

設定面では様々な仕掛けや題材までもが現実を反映させた。警察を主人公としたエンターテインメントの中で組織構造を反映させた点も、後に刑事ドラマというジャンルを大きく変えることになる『踊る大捜査線』に先駆けていた。

ナゼ、人型ロボットの土木機械などという物が普及しているのか?にはバブル期の過剰な開発ブームが反映され、劇中では「バビロンプロジェクト」という一大公共事業が背景にある。

映画1作目で「狂気じみたバブルによって失われたもの」を描き、それを“都市論”にまで結びつけたことには、東京出身である僕はある種の共感すらも感じた。それを描いた押井監督も東京出身者であるが、「これは東京の人間でなければ描けないことだ」と強く感じたのを覚えている(劇中で帆場の動機に気づく後藤隊長が、地方出身者が主である特車二課第2小隊において唯一の東京出身者であるのもおそらくはそういう符号だろう)。

平成の30年間。狂気の祭りの後に訪れた不況は都市の各部に爪痕を遺し、気がつけば元が何であったのかも不明な再開発の嵐となっている。あの1作目のままだ。

映画2作目にいたっては、湾岸戦争から始まる自衛隊の海外派兵問題が起こっていた中での「そもそも“戦争”とはどういう状況か」「その状況を突きつけられたときに、すでに戦時を知らない日本はどうするのか」という命題の突きつけは、その後の平成30年間を通してこの国が抱え込み、答えを見いだせないままのジレンマをあの時点で見せつけている。

アニメ映画版についてを主に書いたが、ゆうきまさみのコミック版も様々な社会世相を巧みに切り取っていた。さらっと書かれているセリフの一言に「あ」と思わされたことが何度もあるし、キャラクター描写においても今を楽しむという手段のためならモラルなどもなく目的を選ばない内海のような存在は今や現実的なものとなってしまっている(余談ながら、コミック板における「イングラム対グリフォン」が『鉄人28号』のオマージュであることは有名であるが、そう考えると前述の『AKIRA』しかり、同時期に『鉄人28号』オマージュの作品が2作もあり、しかも両作ともが時代に強く残っているというのは不思議な偶然であると思う)。

『ガンダム』以後のいわゆるリアルロボット路線の中にあっても『パトレイバー』が特殊であったのは、アニメ版もコミック版も制作時の時代性が強く作品に焼き付いていることで、その抉った時代性が浮き彫りにした命題や課題がその後もこの社会が解答を出さずにきたものばかりだと言うことだ。平成30年間をまるまる駆け抜けた作品の1つだが、いまだ見返しても古くささを全く感じさせないのは、そういう部分にあるのではないかと思う。

『AKIRA』も『パトレイバー』も、もちろん映像制作で用いられる技術は今と異なっている。いまやセルは使われていない一方、デジタルエフェクトやCGが使われている。だが「平成を代表する作品」ではなく「平成を象徴する作品」としてこの2つを挙げたのは、技術ではなく、もっと作品の内を通る軸の部分のことが時代を表していたと思うからだ。代表作であるなら他にももっとヒットしたであるとかの別作品もある。しかし30年間を通しての象徴というのは時代性・社会性をどれだけ反映させ刻んでいたか?になる。

アニメに限らずどのような分野でもだが「○○時代を表した作品」ということの正確な評価はその当時にはわからない。今を表したつもりの作品であっても、数年もしないうちに「ちょっと的を外していたなァ」となることもある。それがどのように時代性を焼き付かせているのか。それが“今”にどう繋がることで現代が見え、その見え方が変わるのか。そこまで繋がって初めて本当の「○○時代を表した作品」になる。その点でこの記事で上げた2作はまさにそれだったと思うのだ。昭和の最後、平成の初期に生み出されていながら、平成の30年間でも色あせず有り様を示した作品。

それを考えたとき、「令和を象徴する作品だった」「令和アニメのスタンダードな有り様はあの作品が全て示していた」と言える作品は、もしかするとすでに僕らの目の前にあるのかもしれない。それが本当にそうであったのかどうかがわかるのはこれまた30年後くらいだろうが、その時にどのような作品の名が挙がるのかはちょっと楽しみである。

文 / 岡野勇(オタク放送作家)