レジェンド声優:古川登志夫
インタビュアー:藤井青銅(放送作家/作家/脚本家)
- 藤井青銅
(以下 藤井) まずは、古川さんがどのようにして「アニメ声優」という仕事に出合ったのかについて教えてください。
- 古川登志夫
(以下 古川) 僕は児童劇団に入って演技の仕事を始めたのがスタート。
当初は普通に芸能界に入るタレントを目指すという感じで……11歳の頃かな。そこでずっとドラマをやっていて、大人になってからはお芝居をやりたくなって大学で劇団を作りました。その後入った劇団の座長が高名な声優(中田浩二さん)で、そのルートで声の仕事をやるようになったというのが声優になるきかっけです。
だから最初から声優を目指したわけじゃないんですね。ただ、僕らの年代ではわりとそういう人たちが多かったと思います。
- 藤井
同世代のほかの声優さんも皆さんそんな感じなんですね。
- 古川
ほとんどの方がそうじゃないですかね。
玄田哲章さんなんかは薔薇座(野沢那智主宰の劇団)にいましたし、劇団にいる人たちが声優をやっているという印象でした。
人によってはお芝居で食えないにもかかわらずそちらを“本業”としていて、声優の仕事はあくまで“アルバイト”だなんて考えている人もいましたよ。
大先輩の中には声優と言われると怒る人もいましたね。
- 藤井
役者の仕事の一環で、たまたま声の仕事をしているだけだ、と。
- 古川
ですから、僕も「ご多分にもれず」と言っていいんでしょうね。
多くの人がそうであるように劇団で芝居をやっていて、それからドラマとかやって、そして声の仕事もやるようになっていったという感じです。
- 藤井
そんな中、「おれは声優になったな」と思われたのはいつ頃なんですか?
- 古川
単発でアニメとか海外ドラマとかをやっているうちはあまりそういうことは思わなかったかな。あくまで俳優の仕事の1ジャンルとしてやっているという感じでした。
ただ、レギュラーで1つの作品に関わった時、アニメでは『マグネロボ ガ・キーン』(1976年)、海外ドラマでは『白バイ野郎ジョン&パンチ』(1977年)で、どちらも主人公役だったんですが、そういう作品に出会った時、自分が「声優」と呼ばれていいんだなと思いました。
当時、神谷明さんも「先輩方の中には怒る人もいるけど、オレたちは声の仕事をメインにやっていて、しかもそれが90%以上なんだから“声優”って言っていいんじゃないの?」なんて言っていましたね。
僕らは自分たちが声優であることを受け入れた最初の年代なんですよ。
(構成:山下達也 / 撮影:田里弐裸衣)
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古川登志夫(ふるかわとしお)
7月16日生まれ、栃木県出身。青二プロダクション所属。1970年代から活躍を続け、クールな二枚目から三枚目まで幅広い役を演じこなす。出演している主なアニメーション作品には、TVシリーズ「機動戦士ガンダム」(カイ・シデン役 1979~80年 テレビ朝日)、映画・TVシリーズ「うる星やつら」(諸星あたる役 1981~86年 フジテレビ)、映画・TV「ドラゴンボール」シリーズ(ピッコロ役 1986~97年 フジテレビ)、映画・OVA・TVシリーズ「機動警察パトレイバー」(篠原遊馬役 1989~90年 日本テレビ)、映画・TV「ONE PIECE」(ポートガス・D・エース役 1999年~)など多数ある。
藤井青銅(ふじいせいどう)
23歳の時「第一回・星新一ショートショートコンテスト」入賞。これを機に作家・脚本家・放送作家となる。書いたラジオドラマは数百本。腹話術師・いっこく堂の脚本・演出・プロデュースを行い、衝撃的デビューを飾る。最近は、落語家・柳家花緑に47都道府県のご当地新作落語を提供中。 著書「ラジオな日々」「ラジオにもほどがある」「誰もいそがない町」「笑う20世紀」…など多数。
現在、otoCotoでコラム『新・この話、したかな?』を連載中。