Sep 28, 2017 interview

声優・柴田秀勝に聞く『タイガーマスク』ミスターX誕生前夜

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青二プロダクション設立!「声優」として生きていくことを決意

 

平野

柴田さんというと、新宿・ゴールデン街のバー「突風」のオーナーとしても有名ですが、これはどういうきっかけで始めることになったんですか?

柴田

卒業前に関西歌舞伎が倒産して途方に暮れていたら、新宿のゲイバーで働いてた女形(おやま/歌舞伎で若い女性の役を演じる役者)の先輩からお祝いをしてやるって呼び出されてね。それで仲間と連れ立って新宿まで行く通り道にゴールデン街があったんだよ。時は昭和33年(1958年)……この年の4月に日本が変わる大きな事件があったんだけど知ってる?

平野

え? 何かしら……東京タワーができた年ですよね?

古川

ああ……アレですね。でも言いにくいなぁ(笑)。

柴田

そう、「売春防止法」が施行されたんだ。当時のゴールデン街は「花園街」っていう、都内でも有数の色町でね。ところが3月31日をもって閉鎖しなくちゃいけなくなって、それで一斉に店が売りに出たんだよ。その売り出しの張り紙を、先輩の店に行く途中で見つけてしまったんだ。「土地付き74万円也」ってね。

平野

それがきっかけなんですね!

柴田

そのとき一緒にいた同期の久保進(後の青二プロダクション創業者)がちょっと見てみたいなんて言うもんだから、のぞいてみたんだよ。そうしたら店主のオヤジに捕まっちゃって、「毎月2万の支払いでいいから買え」って(笑)。でも、当時はフランク永井が月給1万3800円なんて歌っていた時代だからね。就職もしてない若造が払えるわけがないんだよ(編集部注:現代との物価差は初任給ベースで約15倍。74万円はおよそ1100万円に相当する)。

古川

給料全部払っても足りないじゃないですか。

柴田

そうしたら店主が「わかった、それならお前は月1万円出せばいい、残りの1万は俺が客になって飲んでやる」なんて言いだしてさ。それで翌週には権利書渡されて。残念ながらそのオヤジさんは、支払い終わる前に亡くなっちゃったんだけど、その後も息子さんがちゃんと後を継いでくれてね。良い時代だったよ。

 

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古川

それは確かに良い話だと思うんですが、役者としては相変わらず無職ですよね?

柴田

ところが運の良いことに、ちょうどそのタイミングでテレビがドーンと普及し始めて(東京タワー建設もその一環)、役者の仕事があるぞってことになったんだよ。それで太平洋テレビジョン(当時600名もの俳優を抱えていた大手芸能プロダクション)に入社して、洋画の吹き替えなんかをやらせてもらってた。

平野

『熱血カクタス』(1960年)の主役など、実写作品にも出ていらっしゃいましたよね。

柴田

その後、1960年に太平洋テレビジョンの芸能部が独立するかたちで俳協(東京俳優生活協同組合)になるというので付いていったんだけど、30代になった頃(1960年代後半)、東映動画(現・東映アニメーション)に務めていた日芸の先輩から、「もし、おまえたちが声優専門のプロダクションを作るなら業務提携してもいいぞ」って言ってきたんだよね。

というのも当時、声優の仕事はギャラが相場の七掛けで誰もやりたがらなかったんだよ。「影師(=声優)、生師(=実写俳優)の影を踏まず」なんて言葉が生まれるくらい下に見られていたんだ。頼んでも片っ端から断られてしまうので、東映動画はだいぶ困っていたみたい。

古川

それで、さっきもお話が出てきた久保さんが青二プロダクションを立ち上げるんですね。