Sep 25, 2017 interview

第2回:観客がより興味を引く予告編なら改変してもOKがでた時代。

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池ノ辺直子の「新・映画は愛よ!!」

Season17  vol.02 東宝東和株式会社 営業本部 宣伝部アドバタイジング室 山田武司 氏

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映画が大好きで、映画の仕事に関われてなんて幸せもんだと思っている予告編制作会社代表の池ノ辺直子が、同じく映画大好きな業界の人たちと語り合う「新・映画は愛よ!!」

今回は、『L.A.ストーリー / 恋が降る街』をはじめ、今までにご自身が携わってきた映画の話や会社の成り立ちなどを、東宝東和株式会社で9月29日公開の映画『僕のワンダフル・ライフ』の宣伝を担当されている山田武司さんにお話いただきます

→前回までのコラムはこちら

池ノ辺直子 (以下 池ノ辺)

私と山田さんが一緒にお仕事した最初が、前回もお話した『ジェイコブス・ラダー』(1990年)でした。

あれは難しい映画でしたよね。

山田武司 (以下、山田)

今ではカルト化している作品なんですけどね。

タイトルも旧約聖書のヤコブの梯子からの引用なので、ちょっと宗教的で。

単純にああ怖かったというもので、驚かしの映画ではなかったですね。

池ノ辺

考えさせられちゃうような感じでしたよね。

私が今でも覚えているのは、浴槽に氷がいっぱい張ってあって……というシーン。

あれは寝てたの?

山田

風邪をひいたか何かで、高熱が出て氷を。

日本では風邪をひいたら、布団をかぶって暖かくしますけれど、ああ向こうは氷で冷やすんだと。

知らなかったです。

池ノ辺

当時、何かそういう会話をした覚えがありますね。

山田

監督のエイドリアン・ラインは、ショットが非常に斬新というか。

池ノ辺

素敵でしたよね。

山田

病院で運ばれるときにストレッチャーのタイヤがくるくると回るのがアップになるのは、今でも他の人が結構パクってますよね。

あと、フランシス・ベーコンの絵からインスパイアされた異形の者も後の映画に影響を与えています。

あと、『ホーム・アローン』に主演する前のマコーレー・カルキン君も出ていました。

池ノ辺

あれは何年前でしたっけ?

山田

『ジェイコブス・ラダー』の日本公開は1991年ですから、はるか昔ですね。

池ノ辺

あの頃の映画は、ちょっと面白いのがいっぱいありました。

何かするにしてもアプルーバル(認可)も取らない時代でした。

山田

当時はアプルーバルなんて言葉は全然使わなかったですよね。

池ノ辺

要するに、日本の宣伝部の中で宣伝部長がOKであれば、世の中に出ちゃったという。

だから好きなことができました。

山田

はい。

日本の観客がより興味を引く予告編ならばOKがでました。

それから池ノ辺さんと一緒にやったので覚えているのは、『L.A.ストーリー / 恋が降る街』(1991年)。

池ノ辺

さっき思い出しました(笑)。

山田

これは、スティーヴ・マーティン主演の都会派コメディというのかな、スノッブというか洒落た人たちを笑いのめすような要素がちょっとあって。

スティーヴ・マーティンはロサンゼルスの天気予報官なんです。

テレビに出てきて天気予報をするんだけれど、LAだからいつも晴れなんですよ。

池ノ辺

だから仕事が面白くない。

山田

それで、今週分全部撮っちゃおうかと言って、まとめて撮るんだけど、そういう時に限ってたまたま雨が降る。

池ノ辺

そうそう、思い出しました。

どっちかというとコメディっぽい感じでしたよね?

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山田

そうです。

日本では当時、スティーヴ・マーティンだけでは人を呼べる感じでもなかったけれども、映画はファンタジックなラブストーリーとしても素敵だったので……。

池ノ辺

予告編はラブストーリーにしようよと、勝手に変えちゃったんですよね。

山田

ラブストーリーの要素をグッと引っ張りだして。

映画の中にエンヤの曲が使われていて、それを予告でたっぷり流して切ない感じを出しました。

池ノ辺

そう。

ラブストーリーで売ろうと。

だから一つずつのカットも、ちょっと長めにして雰囲気を出した予告編でした。

あの時も、アメリカの方針とか、向こうの予告編とは違う形で日本人に受けるラブストーリーにしていきました。

山田

監督はミック・ジャクソン。

池ノ辺さんが翌年予告編を作った『ボディガード』(1992年)の監督。

池ノ辺

『L.A.ストーリー / 恋が降る街』をやった次が『ボディガード』になるわけですね。

山田

うちでやった後の作品で俳優や監督がみんなブレイクするんだよな。

うちの時にやってくれりゃいいのにと、よくボヤいてましたけど(笑)。

池ノ辺

それで、山田さんともう一本やったのが、『フォー・ウェディング』(1994年)。

あれはイギリス映画でしたよね。

東宝東和さんって、あの頃イギリス映画も買い付けていたんですね。

山田

そうですね。

自分たちで作品を買い付けていくという手法を取っていましたので。

僕が入社した時代は、東宝東和はすでにヨーロッパ映画からアメリカ映画に主軸は移していましたけれど、ヨーロッパ映画もやっていました。

フランソワ・トリュフォーの作品とか。

池ノ辺

東宝東和の前身の東和さんは、昔からずっと良質な作品をやっていたという印象がありますからね。

イギリス映画も配給していたんですね。

山田

『第三の男』(1949年)なんかも東和だったと思います。

池ノ辺

そうですよ。

あの時の社名は東宝東和?

山田

東和商事から東和映画になった頃だと思います。

名前がそういうふうに変わっていったんです。

ヨーロッパの名作を輸入する会社というのが、年配の方の印象だと思うんですよ。

それこそ戦前の『制服の処女』(1931年)とか『巴里祭』(1933年)、あと『天井桟敷の人々』(1945年)とか『禁じられた遊び』(1952)とか。

私たちの世代だと『サスペリア』(1977年)や『バタリアン』(1985)などのホラー作品でおなじみかもしれないですけど。