May 15, 2026 column

『スマッシング・マシーン』ドウェイン・ジョンソンが演じる“世界最強”の崩壊と再統合

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リングの外側にあるドラマ

マーク・ケアーという人物にひかれ、監督・脚本を快諾したサフディはこう語る。

「彼はたくさんの問題を抱えていましたが、ファイターという職業である以上、問題ないふりをするしかなかった。彼の感情や複雑さ、知的な側面は、リング上の巨大でタフなキャラクターとは一致しない。両者はあまりにも矛盾しているのです」

その矛盾を描き出すためにサフディが選んだのは、“アンチ・スポーツ映画”とも言えるアプローチだった。多くのスポーツ映画が、試合や勝負にドラマとしてのクライマックスを持ってくるのに対し、本作はその逆といっていい。

試合の前後に自宅で過ごす時間や、トレーニングに打ち込む姿、あるいは病院、会場の控室。劇的な萌芽と見せ場は、そのほとんどがリングの外側にある。試合のシーンでもカメラはリングの中に決して入らないが、それはマーク・ケアーという人物を引き裂いている境界を強調するかのようだ。

リング上のマークは強い。その巨体で対戦相手を圧倒し、彼が「動物的本能」と形容するすさまじい暴力で相手を屈服させる。まさに“スマッシング・マシーン”だ。ところが、控室では試合に向けて言葉にならない緊張感を高め、そして敗北を喫すると涙を流す。自宅に帰れば、自分が負けたという事実を受け入れられず、ぼんやりとするしかない。ついには鎮痛剤の過剰摂取で意識を失い、病院へ搬送される。

“最強”の自己像が壊れるとき

強くなければならない、勝たなければならない、“最強”でなければならない、そして賞金を稼いで帰らなければならない――。そんな自己像が破綻したとき、ケアーは崩壊する。格闘家としての自分と、本来の自分自身の感情が噛み合わなくなってしまうのだ。そのとき、大きな身体のなかには、幼い子どものごとく脆い精神がある。

ケアーの引き裂かれた性質を間近でもろに受けるのが、恋人のドーン・ステイプルズ(エミリー・ブラント)だ。映画の冒頭で、ドーンはマークのためにシェイクを作ろうとしている。残念ながらマークが求めるレシピとは違っていたが、ドーンができるだけ献身的であろうとしていることはそのワンシーンにも表れている。

ところがドーンは、マークが試合に敗れる前から、ある寂しさを抱えている。彼女はリングで戦うマークに近づけない感覚にさいなまれており、試合前に集中しているマークがつれない態度をとることに耐えられない。しかも、マークが自らを負傷させた対戦相手――ドーンにとっては恋人を傷つけた男だ――に笑顔を向けるなか、自らは写真撮影係になることしかできない。

両者の関係は帰国後にますますこじれてゆく。献身的に世話をしたいと考えるドーンに対し、挫折を味わったマークは、自分が男として見られていないのではないかという不安に襲われる。マークは依存症と戦いながら、必死に自分を律そうとするが、頼られないドーンにとってはそのことが寂しく、つい感情を抑えきれなくなる。

そして、マークが怒りをあらわにすると、自宅のドアは真っ二つになる。“スマッシング・マシーン”であるマークが、その能力をリングの外で発揮するとき、それは恐るべき脅威そのものだ。お互いに愛しているはずが、やがてズレは大きくなり、相手を苛立たせ、ついには傷つけてしまう。