帆高にとってのこの物語が何であるのかは、冒頭でヒントが示されている。彼の数少ない荷物の中にある本が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』であることだ。
前記したように、僕は『天気の子』を見終えたときにアニメ『交響詩篇エウレカセブン』と、高校生の頃に読んだサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を思い出した。その『ライ麦畑』の村上春樹訳版が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だ。思春期の少年が閉塞的な日々に耐えられず家出をし、たどり着いたNYで様々な人々に出会い、社会の欺瞞や悪意、同時に優しさなどに接していく小さな旅が描かれている、50年代アメリカ小説の名作だ。そういえばこの小説でも雨は印象的に登場する。
社会からこぼれている少年と少女が居場所を求める現代東京を舞台とした冒険。その2人を繋ぐのは天気にまつわるファンタジー。作品の要となる部分でもあるので多くは書かないが、ファンタジーとしてはとても古典的だ。古くさいという意味ではない。言葉本来の“古典”の意で、日本の神話的な物語が仕掛けられている。
2人のただ居場所を求め、相手にそばにいてほしいという想いは、世界そのものに対するとてつもなく大きな決断へと繋がり、現代の神話を生み出していく。
『エウレカセブン』を思い出したのはそういう部分だった。世界の大きな秘密と繋がっている少女エウレカと、彼女に出会ってしまった少年レントンを描いたSFアニメ。そしてこのアニメにはもう1組の主人公がいた。戦うために生み出されたアネモネという少女と、彼女と行動を共にする若き軍人ドミニク。放送当時、彼らの、彼女のために世界の全てを敵に回す決意へと繋がる物語に僕は泣いた。そしてその後のドミニクとアネモネの帰結、レントンとエウレカの帰結が見せるファンタジー的なハッピーエンドにまた泣かされた。ああいう話に弱いのだ、昔から。『天気の子』において帆高が下す選択と決意もそれと同じだ。帆高にとってこの物語は「世界vs俺」なのだ。
僕も含め、公開早々に見に行った周囲の(いずれもオッサンである)友人知人の反応はかなり良い。それゆえに肝心要の作品のメインターゲットである若者層の反応が気にかかる。いかんせん僕らオッサンは彼らの発信文化から外れてしまっているので、それを確認できないのがもどかしい。これほどに当事者らの反応が気になる作品は久々だ。
見た人それぞれで異なる「『○○』を思い出した」の『○○』に、当事者たちは何が入るのだろう。いや、彼らはそこに何も入れないのかもしれない。これほど様々な球種で観客にボールを投げてくる作品を彼らはどう受け止めるのか。出来れば、年輩層による感想や評ではなく、彼らの感想や評がどこかのメディアで特集をされないかと望んでいる。新海誠版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とも言えるこの寓話は、その反応や反響が見えたとき、本当の姿を現すような気がしてならないのだ。
文 / 岡野勇(オタク放送作家)