Jun 15, 2019 column

映像と音楽を浴びる快感が伝えるメッセージ『海獣の子供』の劇場体験

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自分ではそれなりの数のアニメ映画を映画館で見てきたと思っている。その中で「アニメファンではないが面白い作品があるなら見たい」という友人に気に入った作品を薦めるとき、毎度悩むことがある。相手の見てもいいと思っているアニメというのはどういうものか。ジブリなどの一般的なものなのか、それともアニメファン向けの作品でもOKなのか。さらに劇場作品の場合(これはアニメに限らず実写映画を薦める場合もだが)「ナゼ、映画館で見ることを薦めるのか」だ。

「映画は映画館で見るものだから」という原理主義的な映画ファンもいるだろう。しかし世の多くの、たまに映画館に来るくらいの人にとってはそれはアプローチしない。そこで引き合いにしやすいのは画面の大きさや音響だ。「とにかく大画面で迫力があるぞ!」「音がスゴいぞ!」というのはわかりやすいお勧めポイントになる。実際、そういうことが魅力の作品は数多くある。が、本当に映画館で見ることの魅力は“迫力”だけなのか。映画ファンとしても長年の疑問で悩むこともあるのだが、そんな中、新作アニメ映画『海獣の子供』を見てしまった。(公式サイト :https://www.kaijunokodomo.com/

周囲となじめない14歳の少女・琉花が、ジュゴンに育てられたという2人の少年と出会ったことから、不思議な夏を経験することになる。

開幕からすぐさま釘付けとなった。実はこの時点では原作未読であったので“夏休みもの”の作品なのかと思ったのだが、物語は予想外の展開を見せ、主人公・琉花は海の広大さ、そこに満ちる生命の大きさを知り、やがて壮大な生命誕生の目撃者となっていく。

スクリーンから劇場内へと溢れ出るとてつもない大きさの画。そこに久石譲による音楽がかぶさり、描かれる生命誕生や宇宙を感じさせてくれる。映像と音楽のイマジネーションに客席が飲み込まれていく感覚はあまりにも未知の体験で、背筋を電流のように駆け上がっていく興奮に浸っていると、2時間があっという間だった。

映画館で見ることの面白さの1つは、自分以外の観客の反応が感じられるところにある。その中にあって本作の終映後の客席に流れていた空気はなんとも独特だ。見てすぐに「こういう作品だった」という明確に一言で表せる感想が出てこない。「面白かった」「つまらなかった」という単純な感想が当てはまる作品ではないことに多く人が気づく。一言で言えば「凄かった」なのだが、何をどう凄く感じたのが即座に言語化できない。「えらいもんを見てしまって、まず自分が感じたことをどう言葉で表せばいいのかわからない」。そんな空気が漂っている。多くの人が困惑するのは、これがセリフでストーリーを説明してくれるたぐいの映画ではなかったことだろう。生命の誕生から存在の全てを、やがては宇宙へと行き着くクライマックスには『2001年宇宙の旅』を思いだした人も多いようだ。

五十嵐大介による原作マンガは主要キャラクター以外の人々や世界各地の事象なども含めて展開していく長編作品。そのままではとうてい2時間の映画化などは不可能な物語を、渡辺歩監督はあえて主人公・琉花の視点と彼女を取り巻いていることに絞って構成した。しかしそのことがマイナスにも引き算にもならず、メッセージとして伝わってくることに驚かされる。本作のキャッチコピーは「一番大切な約束は言葉では交わさない」だが、それは作中のみならずこの映画の有り様をも表している言葉にも思える。

キャラクターデザイン&作画監督をつとめたのはスタジオジブリで『かぐや姫の物語』なども手がけた実力派アニメーター小西賢一。背景美術を手がけたのは本作を制作したSTUDIO 4℃の『鉄コン筋クリート』も手がけた木村真二。さらにCGIチームが海の生物たちは手描きの味を感じさせつつも手描きでは描けない「CGっぽくないCG」に挑んで表現し、手描きとCGがマッチングした全てが五十嵐大介の独特な線で紡がれた画を見事にアニメーション化している。いくつかのインタビューなどを読むと制作スタッフはもちろん主題歌を手がけた米津玄師にいたるまで、全員が原作に惚れ込み、それをどうすればアニメで伝えることが出来るのかという課題に妥協をしなかったことが伺える。言葉で説明し伝えるのでは無い。映像と音楽でどうやって伝えるのかだ。『海獣の子供』は作中でも、そして制作者インタビューなどを読んでも。作品の内外すべてがこの“言葉ではない伝心”が軸となっている。

“伝える”ということは必ずしも言葉によるものだけではない。映像言語という概念があることだって知っている。しかし自分が考えていたソレが、とてつもなく未熟であったことを思い知らされた。琉花に絞った構成を軸とし、彼女が経験する物語をセリフによるストーリー説明ではなく、圧倒的な映像と音楽を浴びることで“感じさせてくれる”。見聞きした者のイマジネーションによってそれは増幅され、どのようなセリフよりも遙かに多弁なメッセージとなる。

こういう映画を語るのはなんとも難しい。見た人それぞれが何を感じたのか。そこにどのようなストーリーを見たのか。それによって作品の見え方そのものがまるで変わってしまう。その人がどのような映画の見方をする人であるのかも左右する。だからとてつもなく大きな感動を感じた人がいる一方で、狐につままれたような気持ちで劇場を出ることになる人もいるし、不満を感じる人もいる。実際、映画レビューサイトの点数の付き方を見ても「とても高い点数をつける人」と「とても低い点数をつける人」に極端に大別され、中間くらいの点数となる人は少な目のようだ。

それならソフト化や配信にかかったら見てみるかなと思う人もいるかもしれないのだが、そこで重要になるのが前記したような「劇場ならでは」ということ。迫力があるとか緻密であるとか旬だとか、様々な理由で「映画館で見た方がいい」と言われる映画は実写、アニメ問わず幾多ある。だが、大画面の映像や劇場の音響が伝えるダイナミズムが作品の見え方やテーマにまで直結している作品はどれだけあるだろう。この直結というのは、たとえばキャメロンの『アバター』におけるIMAX3Dのようなことだ。映画館でしか“体験”ができないことをコンセプトとした同作では、この方式によって観客が作品世界に入れる映像体験を目指した。なのでTVモニターで通常2Dで見てもストーリー自体は同じように伝わってくるが、そもそもの企画コンセプトは消失してしまうし“体験”としては別物だ。『海獣の子供』もこれと同じように観客に凝縮された海と生命の大きさを体験させるというテーマそのものに映画館という環境が活かされている。

前記のように観客の反応が見事なまでに分かれているが、僕も含め心を動かされた人たちの間でスクリーンサイズや「もっと大きな画面で見たい」という声が挙がるのもこういう部分に由来する。見るととにかく「もっと大きな画面で見たい!」という欲求がわきあがる、ここまでスクリーンサイズに飢える映画というのは本当に稀だ。

今年2019年はアニメ映画において大ヒット作・話題作がたて続いた16年の影響が本格的に出てくるだろうと言われている。その中からはこれまでのアニメ映画に対する認識でははかれず、全く異なる概念の作品も登場するだろう。『海獣の子供』も今年を象徴する事件的作品の1本として残るに違いない。

僕らは普段、映画を見ればすぐにその感想や評を確定したがってしまう。だが本作はたぶん数日、あるいはもっとたってからある時突然に「あ、こういう作品だったんだ」と突如と来る作品ではないか。これを劇場で見ておくことは、おそらく10年後にも語ることが出来る体験だと思う。

文 / 岡野勇(オタク放送作家)