1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』放送がもたらしたエヴァブームはアニメファンのみならず、90年代オタクシーンという全体そのものを大きく変えた。
爆発的なブームは分野と潜在人口を一気に増加させ、アニメファンをはじめとした“オタク層”と呼ばれていた人種がマイノリティの時代はそこで確実に終わった。
『エヴァ』ブームがもたらしたものはあまりにも多岐にわたる。アニメ周辺環境においてはアニメ雑誌以外で本格的に『エヴァンゲリオン』を大々的に特集したのがアダルト雑誌『デラべっぴん』(96年8月号)だったことに始まり、『クイック・ジャパン』をはじめとした幾多のサブカル系メディアによる熱狂など。アニメを大々的に取り上げる媒体も評者も一気に増えた。いわゆるサブカルやアカデミズムの論者やメディアも加わることになり、アニメへの評や視点、さらには社会的な価値付けに新たな時代が訪れた(このへんは本来なら当時のパソコン通信文化も密接なのだが、論旨がずれてしまうのでここでは割愛させていただく)。
送り手側にとっては「『エヴァ』のような強い作家性が商品となる」という注目から、90年代後半から作家性を前面に出した作品が増加した。OVAが出現したときにもたれていたものの結局かなわなかった幻想がTVで実現することになった。
そして、その作家性を前面に出したTVアニメ群の1本にその作品があった。『少女革命ウテナ』(97)だ。
ある学園を舞台に、彼女を手にした者が世界を革命する力を得られるとされる“薔薇の花嫁”姫宮アンシーを巡って繰り広げられる、デュエリストと呼ばれる少年少女たちの闘いを描いた作品。監督は90年代前半の大ヒット作『セーラームーン』シリーズを手がけた幾原邦彦。作家性を前面に出した作品がいくつも出てきていた中でも、この作品は抜きんでて異色のアニメだった。
主人公・天上ウテナは男装の少女。3クール全編を貫く前衛劇のような表現の数々。寺山修司の劇団『天井桟敷』にも携わったJ・A・シーザーによる合唱曲がさらなるアンダーグラウンド感を滲ませる。 メイン脚本・榎戸洋司の純粋すぎる時期の心理を巧みに切り取ったセリフの数々。 それらが照らし影を生む思春期の心理の鮮烈さはあまりにも先進的で革新的だった。
しかし放送当時に僕はとても困惑した。あまりの面白さに手当たり次第に人に薦めていたものの、「どういう作品?」と問われたときにその説明が言語化できなかったからだ。物語もテーマも描写も、その全てが言語化できなかった。どんな言葉をもって説明しても決定的に何かが足りておらず、その言葉が正しいのか疑問がついて回る。映像や音楽の全てがまさに映像言語として見る者の感性に物語として届いてくる作品を言葉にすることはそれほど困難だった。
『セーラームーン』は“戦うヒロイン”を決定的なものとした。中学生の女の子たちが恋のために、人生のために、誰かの想いのために立ち塞がるものと戦う。それは「王子様に守られるばかりであった女の子」という時代の終わりを告げる作品だったが、その『セーラームーン』をもってしても、女の子たちを取り巻く世界が「王子様とお姫様」という構図によって成立していたことは変わらなかった。だが『ウテナ』はそれすらも突破したのだ。
「もし、お姫様が、王子様を必要ないと思ってしまったら?」
物語が思春期の果てに行き着くのは、お姫様であることにすら縛られない自己の世界の変革。それゆえの“革命”だ。同じテーマで世界中で超ヒットをした『アナと雪の女王』(13)が登場する16年も前に、すでにこの国のTVアニメでは女子児童向けという枠でこのような作品が生み出されていた。
劇場用に新たな物語として生み出された『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(99)はTV作品としては無理だったセクシュアルな表現も取り入れ、テーマをさらに明確に、その先へと突き進んだ。『ウテナ』はカルト的な人気を呼び、「アニメ監督:幾原邦彦」という存在はファンの心に、まるでトラウマのような強さで刻まれることとなる。
『ウテナ』放送時。作品が伝えてくることの意味がまだ理解できていなかった時点でも、1つだけハッキリと感じていたことがある。 それは「今、この作品を見ている人とそうでない人の感覚や意識は、数年後に明確に分かれてしまう」ということだった。アニメに対する見方だけの話ではない。社会や時代へのアンテナといった感覚や意識だ。 アニメファンにとっても、全体を表すオタクというシーンにとっても。さらには作品本来のターゲットである女の子たちにとってもだ。特に女の子たちにとっては放送時期も絶妙だった。なにしろ『セーラームーン』に熱狂していた女の子たちがちょうど思春期にさしかかったときの放送となる。 『ウテナ』を見た女の子たちの何人かは、その後の生き方や意識が大きく変わってしまったかもしれない。それほどの影響を与えてもなんら不思議ではない作品だった。
10数年を経て発表された幾原監督の次回作『輪るピングドラム』は家族をテーマとしていたが、そのキャラクター造形も物語も、『ウテナ』に心奪われた者たちを裏切らぬ野心的な作品だった。
“95年3月20日”生まれの、世間を振るわせた大事件の首謀者の子供たちを主人公に、希望が持てない世界の中、世界の全てから見捨てられ、こぼれてしまった彼らが生きていく場所を希求する。 続く『ユリ熊嵐』(15)は同性愛的なニュアンスを軸に現代のコミュニケーションと断絶を寓話的な物語として描き出した。
その幾原監督の新作『さらざんまい』が現在放送され配信も始まっている。
(公式サイト http://sarazanmai.com/)
舞台は浅草・かっぱ橋周辺。様々な秘密を心に抱えた3人の少年を主人公に、カッパに変えられた彼らが世の様々な欲望と闘いつつ自らの心と向き合う物語。根底にあるのは抱えた秘密ゆえに他者との繋がりを持つことができない彼らの苦悩だ。
これまでの幾原監督作品同様、本作でもその表現も伝え方も、他に類のない(これはもう説明を書こうとしている者としての敗北を認めるが)言語による説明が困難なものとなっている。主人公たちの暗部にしても女装趣味や義理の家族との壁、さらには殺人など、決して“わかりやすい”ものとしていない。ピクトグラムも多用した舞台劇のような見せ方、セリフだけに頼らずに伝えてくる断片的な回想。見て聴くことの全てが物語として視聴者の中で形となる。
これを書いている現時点では第5話の放送が終わったところで、どうやら最初の山場が来そうな気配だ。この先に何が起こり、何がどのように、どこに着地することとなるのか。皆目予想もつかず目が離せない。“つながる”こととは何なのか。どうしてそれを望むのか。いや、そもそも必要なのか。ナゼこの作中では“つながる”ことの希求と対峙するものが“欲望”であるのか。幾原邦彦はそこに何を見、描こうとしているのか。
世の中には“おはなし”だけで全てが語られる作品も多々あるが、幾原作品は映像の全てが語ってくる。どの作品でも根に流れる社会への視点、時代意識。全てが刺激的で、見る者の感性や理解力そのものを震わせてくる。感動的に震えるだけではない。意識を撹拌してくるといった方が近い。どれも刺激的だが、見る者を惹きつけるのはたんなるセンセーショナリズムでもショッキング性でもない明確な挑発だ。挑発を受けて見る者の中に浮かび上がってくるのは、社会や時代といった僕らを取り巻く世界に隠れている、なにかしらの“感覚”に他ならない。その目には見えない“感覚”をアニメーションという手法がビジュアライズする。
幾原作品を見続けてきて思うのは、そのいずれもの作品が滲ませ描いていた社会や時代への“感覚”というのが何であったのか?に気づき、見た者の中での評価が形となって見えてくるのがかなり後になってからだと言うこと。だから幾原作品は数年後に再び見返したくなる。 もしかしたら幾原監督の感覚は世間大多数であるとか主流の意識からは何歩も先を行っているものではないのかとすら感じる。しかし、あまりにも先に行ってしまった感覚を持つ者にあるのは孤独だ。それを反映するかのような孤独感の中、「繋がる(コミュニケート)」や居場所の希求、存在の救済や自己変革。『さらざんまい』にはこれまでの幾原作品にちりばめられ、描かれてきた要素も数多く仕掛けられている。 幾原はこの作品で過去20数年間で描いてきたことの“先”を見せようとしているのではないか。それは新たな“革命”なのではないのか。そのことに期待と同時に怖さすらある。
前記したように『エヴァ』ブームは多くのサブカルチャーやアカデミズムの論客もアニメ・オタクシーンに登壇させる新時代を作った。だが当時、僕は彼らの多くが『エヴァ』論は熱く語るが、『ウテナ』をほとんど取り上げず語らないことが不思議でならなかった。オタクシーン全体があれほど大きく動き、いくつもの作家性が強い作品が登場していたいた中にあっても、『ウテナ』や幾原監督はあまりにも別格だったのかもしれない。幾原作品はそれほどの劇薬だ。その劇薬がまた僕らの目の前に現れている。
数年後に感じる“何か”のために。見えていなかった時代性を見つめるために。間違いなく『さらざんまい』は今期アニメが起こそうとしている事件の1つであると思う。
文 / 岡野勇(オタク放送作家)