Apr 12, 2023 column

第29回:坂本龍一に影響を受けた映画音楽 『TAR/ター』と『ウーマン・トーキング 私たちの選択』

A A
SHARE

坂本龍一の音楽に影響を受けた アイスランド出身作曲家ヒドゥル・グドナドッティルの新作映画

『TAR/ター』

グドナドッティルの映画音楽が有名になった映画がアメコミのバットマン・シリーズの1作品『ジョーカー』 (2019) 。物語はジョーカーの誕生秘話になっていて、主演男優のホアキン・フェニックスがアカデミー賞主演男優賞に輝き、グドナドッティルはアカデミー賞作曲賞を受賞している。映画の中で最も印象深い『ジョーカー』のダンスのシーンは、彼女の作った旋律にあわせて振り付けも考えられたそうで、作曲のプロセスが演技する側とコラボするという画期的な相乗効果で彼女の名前は、一躍有名になったのである。『ジョーカー』続編は2024年、来年公開予定だが、主要キャストの一人、レディー・ガガが撮影終了を果たしたとツイッターでもふれたことがすでに話題。続編のサントラも手がけるグドナドッティルは、今年、アカデミー賞作品賞に選ばれていた2作品に関わるなど、超多忙な作曲家なのである。

監督トッド・フィールドはセンセーショナルな映画『イン・ザ・ベッドルーム』 (2001) の後公開した『リトル・チルドレン』(2006)から16年間を経て、この映画を完成させている。監督業から離れていたのではなく、作りたい映画が難しいテーマでありすぎたことで、実現不可能になった作品が相当あったとアカデミー賞の前哨戦のQ&Aでこぼしている。この映画の企画が可能になったのは、主演がケイト・ブランシェットに決定したことが一因だったという。

最初はビジネスウーマンという設定で考えていたそうだが、スタジオから、上下関係の激しいクラシック音楽の世界を舞台にしてはと提案があり、物語の世界観を一変させた監督。権力を持った人間が自らをもほろぼしていくというサイコドラマを見事完成。監督は映画『TAR/ター』の主人公をあえて女性に設定し、男女関係なく、天才的指揮者がその才能がゆえに、誰も手をつけられない暴君へと変貌していくという人間の性を追求している。

監督が音楽アドバイザーとして頼りにしたのが、ロサンゼルスの野外コンサートで知られるハリウッド・ボウルの音楽監督を務めたジョン・マウチェリ。レナード・バーンスタインの愛弟子で、映画の中でもケイト・ブランシェット演じる指揮者がバーンスタインの愛弟子という設定になった理由もそこにある。余談になるが、今年公開予定のNetflix映画『マエストロ』はバーンスタインの伝記映画。ブラッドリー・クーパーが主演、監督、製作、脚本を務める話題作で、今年も音楽映画の話題は熱い。指揮者ジョン・マウチェリはトッド・フィールド監督から、一番好きなシンフォニーはと聞かれ、マーラーの交響曲の交響曲5番嬰ハ短調と答えたという。監督もこの曲を中心に物語を展開。

イタリアの名画、ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』 (1971) に4楽章のアダージェットが使われているが、映画『TAR/ター』ではその耽美なメロディだけでなく、主人公リディアの葛藤、苦悩、そして歓喜へと感情の起伏にふさわしい楽曲の一つとして主人公の背景で生きている。指揮者が息を吸って、楽団の一員それぞれがその息を吐くかのようなオーケストラの魔力を映画の中で表現したかったという、ベテラン女優ケイト・ブランシェットの演技は見事。グドナドッティルが作曲した部分は、女優ケイト・ブランシェットが天才的女性指揮者であるだけでなく、作曲家としての内面を描く音楽を作曲するという部分を担い、もともとチェロ奏者としても活躍していたグドナドッティルの音楽は、主人公を喚起させる役目を担っている。さらには映画全体で流れるその他の音楽も選曲したそうで、かなりのこだわりのあるアルバムもリリースし、映画の余韻が楽しめるようになっている。