Nov 18, 2017 interview

あたる×ラム×しのぶ 声優同窓会インタビュー

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島津

興味はあったんですけれど、両親は私が芸能活動をすることには全く理解がなくて、まずは勉強しなさいって言われていました。ただ、母は情操教育として、よく劇場に連れて行ってくれました。

平野

その当時憧れていた舞台女優さんはどなた?

島津

具体的に誰かの熱烈なファンになったということはないんですが、テレビで見た宝塚の『ベルサイユのばら』には夢中になりましたね。漫画の原作も大好きだったので。それに、当時は演劇の情報を得る方法がなかったんですよ。週に一度の新聞の演劇欄くらいで。

古川

当時はインターネットなんてなかったもんなあ。

平野

でも、芸術関係が盛んな文化学院卒でしょ? それまでに何か転機があったということ?

島津

高校時代に歌舞伎にハマって、歌舞伎座や新橋演舞場に通い詰めていたんですが、そこで初代・水谷八重子さん率いる劇団新派に出会ったのがきっかけですね。新派のお芝居が大好きで、その看板役者の水谷良重さん(編集部注:水谷八重子さんの一人娘。後に2代目・水谷八重子を襲名)のサイン会に行って「新派に入れてください!」って頼み込んだんです(笑)。

古川

すごい度胸!

 

 

平野

突撃、って感じね(笑)。

島津

それで良重さんのアドバイスで、日本舞踊と三味線を勉強しはじめたんですが、間の悪いことに、新派のホームグラウンドである新橋演舞場が建て替えで休館になることが決まっていたんです。新派も当分新人を採らないから、少し待っていなさい、と。それで母の勧めで、当時の文化学院大学部文学科演劇コースに入学することになったんです。

平野

文化学院ではどんなことを勉強したの?

島津

文学座の大女優・長岡輝子先生、北城真紀子先生の朗読の授業があって、そこで朗読について叩き込まれたのは、確実に今の仕事に繋がっていますね。狂言は野村万作先生が。フランス喜劇の翻訳などでも有名な演劇評論家の利光哲夫先生からもご指導いただきました。その授業は、自分たちでゼロから舞台を作るというものだったので、役者だけでなく、演出や舞台監督、大道具までいろいろなことをやらせてもらいました。足場を組んで大道具の上の方に登ったりもしていたんですよ(笑)。

 

声優デビュー作は国民的シリーズのヒロイン役!

 

古川

そこから「声優」になっていくのはどの辺からなの?

島津

在学中も両親がまだ反対していて……。心配だったのだと思います。芸能界は怖いところだと一般的に思われていたから。そうしたら叔母の知り合いの役者さんがプロダクション・エムスリーは信頼できる事務所ですよと、紹介してくださって。

古川

エムスリーは千葉繁さんが所属していたところだね。

島津

そうです。エムスリーでは当初、ドラマなどの顔出しの仕事をやらせていただいていたんですが、声の仕事も請けている事務所だったので、ある日、声優のオーディションに行きなさいって。それが、『タイムパトロール隊オタスケマン』(1980年)のヒロイン・ナナちゃん役だったんですよ。

古川

やっぱり最初からヒロインをやる宿命だったんだねえ。

平野

当時のエピソードで何か覚えていることはある?