池ノ辺直子の「新・映画は愛よ!!」
Season11 vol.05 東京国際映画祭・事務局次長 井原敦哉 氏
映画が大好きで、映画の仕事に関われてなんて幸せもんだと思っている予告編制作会社代表の池ノ辺直子が、同じく映画大好きな業界の人たちと語り合う「新・映画は愛よ!!」 第5回は、GAGAを退社して、アスミック・エースへ移られてからのお話です。
- 池ノ辺直子 (以下 池ノ辺)
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GAGAを退社後、アスミック・エースに移ったんですよね。
- 井原敦哉 (以下、井原)
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そうです。
1999年に、アスミック・エースに転職しました。
自分のやりたい事ができなくなって来ていた時期に、アスミック・エースの躍進ぶりが目覚ましかった時でした。
当時配給していた映画を挙げると、『ファーゴ』、『トレインスポッティング』から始まって、『スクリーム』、『ビッグ・リボウスキ』、『ライフ・イズ・ビューティフル』……。
会社として伸び盛りだったし、僕にとっては非常に作品が魅力的でした。
その頃僕もGAGAで『ブギーナイツ』、『僕のバラ色の人生』と単館系を手掛け始めていました。
- 池ノ辺
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確かに、攻めてる作品ばかりね。
- 井原
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そう、とにかくセレクトしている映画が素晴らしかったんです。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も松竹さんとやっていましたね。
- 池ノ辺
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お〜! 歌手のビョーク主演のね。
手持ちのカメラワークや突然歌いだすミュージカル仕立てと斬新だったのを覚えてる!。
アスミック・エースは、配給だけじゃなく、制作もしてましたね。
- 井原
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僕が転職した頃は、ちょうど『雨あがる』を制作していた時期ですね。
- 池ノ辺
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転職は、引き抜かれたの?
それとも自分から転職試験を受けにいったの?
- 井原
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自分で受けに行きました。
GAGAも新たな人が加わってきて、会社としても過渡期でしたし、それは自分も同じで、違うスタイルを求めていた時でした。
そんな折、アスミック・エースが中途採用の公募を出していて、求められてもいない資料まで綿密に作っていきました。
本気でアスミック・エースに入りたかったですね、誰にも負けたくなかった。
- 池ノ辺
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そうだったんですね! スゴいタイミングね。
会社名は、もともと「アスミック」でしたよね?
- 井原
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その通りです。
もともと「アスミック」でした。
アスミックは、アスク講談社と、住友商事と、講談社の「アス」「スミ」「K」でアスミックになったんです。
その後に『バスキア』や『ポネット』を配給していたエース・ピクチャーズと合体しました。
- 池ノ辺
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そして、アスミック・エース エンターテインメント株式会社が1998年に誕生するんですね。
当時『不夜城』を制作してましたね。
- 井原
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そうですね。
僕が入るずっと前の話です。
エース・ピクチャーズの原正人さん(当時アスミック・エース社長)中心にお作りになっていらっしゃった。
馳星周のベストセラー小説を『世界の涯てに』の李志毅(リー・チーガイ)監督、金城武主演で、新宿歌舞伎町を舞台に描いたノワール・ムービーでした。
- 池ノ辺
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世界的にも有名は映画美術監督の種田陽平さんが美術を担当して、香港電影金像奨の最優秀美術監督賞を受賞されたのよね。
- 井原
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アスミックはビデオ発売元として洋画を中心にビジネスを展開していましたが、質のいい作品が多かったのと単館ブームの兆しがあったので配給をやり始めたと聞いています。
- 池ノ辺
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アスミックでは、竹内さんと一緒にたくさんの仕事をしましたよ。
なつかしい〜!!
- 井原
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はい、竹内伸治さんですね。
竹内さんはシネマテンから、その後アスミックに転職されました。
アスミック創成期メンバーの一人ですね。
ものすごい映画知識人で、圧倒されました。
口から生まれたような人で映画の話が面白くて面白くて(笑)。
淀川長治さんの後を継いでほしかったです。
それから同じ時期にアスミックにいたのは、いまアスミック・エース取締役の豊島雅郎さんですね。豊島さんがたしか新卒第1号のはずです。
- 池ノ辺
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へ〜。懐かしい!!
その頃からどんどん会社が大きくなっていったのを覚えているわ。
- 井原
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そして、アスミック・エースの「エース」は、ヘラルド・エースが前身のエース・ピクチャーズから取っているんですよね。
エース・ピクチャーズは原正人さんが率いていただけあって、映画製作と企画、配給を中心に成長していきました。
ただし、ビデオの機能が弱かった。
そしてアスミックは、ゲーム・ビデオソフトの販売会社として成長し、洋画の買付・配給を伸ばしていったんです。
ただし邦画の領域はまだ未知。
お互いの足りない部分が合致して、配給も宣伝も製作もビデオもゲームも出せる会社「アスミック・エース エンタテインメント」という会社ができあがったんです。
そしてアスミックのバックで一番大きな会社が住友商事で、エース・ピクチャーズが角川書店でした。
- 池ノ辺
-
でもあの時、角川書店はヘラルドと一緒にやってましたよね?
- 井原
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いいえ、違いますよ。
まず日本ヘラルド映画㈱から生まれた㈱ヘラルド・エースが1995年に角川書店と提携して独立したのがエース・ピクチャーズです。
-
日本ヘラルド映画が角川ホールディングスの傘下になったのは2004年の事で、こちらの方がずっと後になります。
原正人さんと(アスミック・エースの特別顧問)と角川歴彦会長のつながりは深く、その後『リング』『らせん』といった大ヒット作品が生まれていくわけです。
- 池ノ辺
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なるほど……。
そして1998年にアスミック・エース エンタテインメントが発足して、いろいろな事業を展開されてきた訳ですね。
映画だけじゃなくゲームもあるし、ビデオ、DVD、配給、それから製作までをになう会社になった。
- 井原
-
これくらいの規模の会社で配給だけじゃなく、邦画製作もやり始めた会社は当時めずらしかったと思います。
- 池ノ辺
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そうして製作された作品がどんどんヒットしていきましたよね。
『雨あがる』とか。
- 井原
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黒澤明監督が山本周五郎の短編をもとに書いた遺稿を、黒澤組のスタッフで映画化した作品ですね。
作品賞以下、見事日本アカデミー賞8部門受賞を成し遂げました。
- 池ノ辺
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ヴェネチア国際映画祭の緑の獅子賞にも輝きましたよね。
井原さんは、1999年にアスミックに宣伝プロデューサーとして入社されるんですよね。
その頃は何を担当されていたのかしら。
- 井原
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そうですね、入ってすぐに『ワンダーランド駅で』という作品を担当しました。
最初の大型の担当作品は『マルコヴィッチの穴』ですね。
当時のアスミック・エースは大きく広げる全国公開ものというより、単館系の映画館でしっかり堅実な宣伝を行っていましたね。
- 池ノ辺
-
そうよね。当時はそんな感じだったわね。
- 井原
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GAGAとアスミック・エースは宣伝的には真逆なところもあって、そこが面白いところでもあり負い目に思うところもあったんですが、『海の家のピアニスト』の宣伝で、「じゃあ、実際に豪華客船持ってきましょう!」って言うと「えっ、そんなことできるの?」っていう感じでした(笑)。
もちろんやってみました。
- 池ノ辺
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そこで、井原さんが「仕掛け」を展開し始めたんだ。
それで、大学生の頃からやりたかったことを、やり始めるわけね。
- 井原
-
そうですね(笑)。
周りが考えもしなかった宣伝をやり始めましたね。
『リトル・ヴォイス』の時も、スクリーンキャプチャの画像写真では、実は指の形が美しくなかったんです。
でも、ポスターやちらしにするには、指がまっすぐに伸びていた方がインパクトがあるなと思って、当時はまだ専門職だった画像処理家がいたので「指を伸ばしに行こう!」と言うと、「そんなことできるんですか?」って(笑)。
当時は珍しかったんですかね。
- 池ノ辺
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ていうか、それって「できるんですか?」は「やっちゃっていいの?!」っていう話じゃない?(笑)
- 井原
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いや(笑)、でもその時代はまだアプルーバルを取るとか、あまり必須じゃなかった時代なんですよ。
- 池ノ辺
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あら! じゃあ、やっちゃったの?
- 井原
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はい。
画像処理屋さんにみんなを連れて行って「こんなことができるんだよ」と(笑)。
- 池ノ辺
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いまの時代なら、絶対に無理よねえ(笑)
そういう時代はありましたね。
- 井原
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そうですね(笑)。
- 池ノ辺
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宣伝の中でクリエイティブなものを作り上げて納品するというのが普通にできた時代。
でもだんだんお金を出す側が、口を出すようになっていって、(当たり前なんですが)何かこう、広告的な展開になっていった部分ってありますよね。
- 井原
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宣伝が画一化していく時ですね。
本国の言う通り。
本国より絶対良いポスターを作ってやる!予告編もそう!っていう宣伝マンの気概というのが少しづつ削がれていったのかもしれません。
いつからか、メジャーの映画会社も自分たちが製作した作品を自らの支社での配給ではなく、その国々のインディペンデントの配給会社に売り始めていました。
- 池ノ辺
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スタジオ側が製作した映画を売りに出したってこと?
- 井原
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そうです。
切り売りして、ちゃんとやる気のあるところでやらした方がいいだろうっていう判断なんでしょうね。
そうなるとお金も入ってくるわけだし。
- 池ノ辺
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その流れって、2000年くらいから始まったのかしらね。
- 井原
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よくわかりません。
東宝東和さんとかは、もっとずっと前からやられていたと思います。
そういえば、1999年の映画ですが『ミュージック・オブ・ハート』とかは、予告編やポスターなど全部アプルーバルを取っていましたね。
- 池ノ辺
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ということは、ちょうどその頃が過渡期だったのかもしれないわね。
- 井原
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それもあるし、まあ、作品の規模にもよりますね。
大作になると、自由度は減ってくる傾向はあります。
- 池ノ辺
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役者も大御所になっていくと、アプルーバルは必須だし厳しくなっていきますよね。
今は、当たり前だけど。
宣伝プロデューサーとして作品についた時に、まず最初に着手することは「日本での宣伝はこんな展開でやっていきたい」というプレゼンから入るのかしら?
- 井原
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そうですね。
あまり細かくはないですけれど大きな流れを説明し、細部の展開を報告していくことになります。
(文:otoCoto編集部、写真:岡本英理)
第29回 東京国際映画祭
日本の映画産業、文化振興に大きく寄与してきた映画祭で、国際映画製作者連盟公認としては日本唯一の国際映画祭。今年は日本映画の特集上映では、アニメーション作品『バケモノの子』を監督した細田守の特集や、黒木華主演の最新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』で日本映画として約12年ぶりに実写長編映画を手がけた岩井俊二監督の特集企画が決定。
11月3日(木)まで開催中。 会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木ほか。
PROFILE
■ 井原 敦哉(いはら あつや) 公益財団法人 ユニジャパン 東京国際映画祭 事務局次長
1968年、長崎県生まれ。1993年に明治大学を卒業後、株式会社ギャガ・コミュニケーションズに入社。パブリシティ、宣伝プロデューサー業務に従事。99年にアスミック・エース エンタテインメント株式会社に移籍、宣伝部長を務める。2007年に株式会社角川エンタテインメントに転籍し、宣伝部長として、ハリウッドのドリームワークス作品を手がける。10年に角川映画の宣伝部長、11年角川書店と合併し、映画営業局局次長兼映画宣伝部長に。12年公益財団法人ユニジャパンに出向、東京国際映画祭事務局次長に就任、現在至る。