Dec 10, 2020 column

25:『リッジレーサー』をバンドルした、米国でのプレイステーションローンチ

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業界のプロフェッショナルに、様々な視点でエンターテインメント分野の話を語っていただく本企画。日本のゲーム・エンターテインメント黎明期から活躍し現在も最前線で業務に携わる、エンタメ・ストラテジストの内海州史が、ゲーム業界を中心とする、デジタル・エンターテインメント業界の歴史や業界最新トレンドの話を語ります。

24「 プレイステーション5の真の敵はどのプラットフォームなのか?」はこちら

PS5が予約販売時点で売り切れたという話を以前書きましたが、まだまだ入手が難しい状況が続いている様です。そのPS5のラインアップたるや初代PSのローンチをソニーで経験した時に比べると隔世の感のある、映画のようなタイトルの数々でとても感銘を受けます。米国で初代PSをローンチする中心メンバーになったことは以前簡単に述べたのですが、もう少し詳しく事例を含めて紹介したいと思います。激動の時期に大胆な職歴の動きがあるという私の体験談なので、少し昔の話となってしまいますが、いま世の中がが大きく変わる時期の参考になると思います。

経営企画としてビジネスプランを担当する為に、エンタテインメント事業を担当するソニーの米国本社に赴任しましたが、米国でのPSの立ち上げに当たり、日本の事情を分かっている人材が誰もいません。そこで、赴任先の上司とは口約束で正式な赴任命令もないままにプレイステーションのビジネス部門、当時のSony Computer Entertainment America (SCEA) に転がり込みます。

そこで、Steave Wozniak(スティーブ・ウォズニアック)の弟のMarkとプレイステーションプラットフォームのサポートをしてくれるパブリッシャーやデベロッパー(開発会社)に営業で回る仕事、サードバーティリレーション(Third Party Relations=TPR)を始めます。当初は日本から送られてきた開発機材とプレゼン資料を頼りに、全米の開発会社やパブリッシャーを回り始めるという事が半年くらい続きました。

その後、米国のSCEA社長が決まり、組織を一気に立ち上げることになりました。オフィス環境も代わり、L.A.のソニーミュージック内の部屋の片隅にあったオフィスから、シリコンバレーにあるフォスターシティに本社を構えます。我々の部署のボスとなるVice Presidentもこのころ雇われました。ちなみに、ローンチ準備から、ローンチしばらくまで、日本人は私とテクニカルサポート人員の一人だけ。マネジメント含めて当初はとてもアメリカンな組織でした。

TPRの仕事をしていて、当時びっくりしたし感心したのは、米国各社のエンジニアがとてもアクティブで、見た目も含め日本のエンジニアとはタイプの違うバラエティに満ちた人材が数多くいたことです。当然、マネジメントや営業現場も様々なプレイヤーがいたのですが、みんな日本の会社の取り扱いには慣れています。それは、ここまでにゲーム業界をつくりあげた任天堂とセガのおかげともいえるでしょう。

更に感心したのは、当時は日本のパブリッシャーの力がとても強く、コナミ、カプコン、アトラス、バンダイ、ナムコ(当時はまだ別会社)など各社に、サムライのような確固たる信念を持った日本人ビジネスマンが数多くいたことです。彼らは、任天堂、セガと一緒に仕事をしながら、また交渉をしながら、非常に難しいアメリカのリテールビジネスにも取組んでいるのでした。

また、業界は狭く、皆友達のようなネットワークがあり、一人とつながると次々と話がつながるようになります。ただし、それゆえ秘密の話ができない事には頭を悩ませられました。

当時、私は経営企画を担当していたため実際に事業をまわしたことがありませんでしたし、ゲーム業界も初めてです。しかし、そんな事情もお構いなく様々な情報交換や交流そして交渉がありました。私の背景を気にしない、それくらい皆のバックグラウンドも様々でした。彼らとしては、任天堂やセガと近しくやりながら、万が一新参者のソニーがうまくいった時に備えており、いろいろな駆け引きも含めて相談、交渉を行うのには慣れているのです。中には、任天堂やセガの情報をいろいろ流してくれる人も多くいて、ソニーのコーポレートの環境と比べると全く違いました。

そのような中でも、PSローンチ前の当時はナムコ社との関係は特別なものでした。日本でも特に近しい関係でPSを立ち上げていたこともあって、現地法人社長の本間さんにはいろいろ教えて頂きました。また、米国での事業を見に来た当時ナムコの社長だった中村雅哉さん(故人)がSCEAに立ち寄ったときには、様々なところへ一緒に連れて行ってくださり、とてもチャーミングな面に触れることができたことは良い思い出です。ちなみに、ゲーム業界は一代でグローバルな会社を立ち上げた創業者が多く、彼らと様々な機会を通して関係を作れたことが私の仕事に対する考え方に大きく影響を与えいてます。

そのような関係性もあり、PSの米国でのローンチにはリッジレーサーがバンドルとしてつけられていました。当時ナムコの米国のコンシューマーの体制はそれほど大きくなく、パックマンは売れ続けていましたが、その後大きなタイトルはコンシューマーで出ていませんでした。米国独自のプログラムとしてリッジレーサーをバンドルしてもらえたことを本間さんと合意できたことは、リッジレーサーのタイトルを活かすという意味でも良かったと思いますし、米国でのPSローンチの成功要因の一つだと言えるくらい重要な取引でした。

このリッジレーサーのバンドルの交渉、一般的なサードパーティの交渉以外の、外部企業との個別のビジネスとしての交渉としては、私にとって記念すべき最初の大きな取引となり、これがきっかけで、数多くのコンテンツの契約を行う道に入っていきます。

Entertainment Business Strategist
エンタメ・ストラテジスト
内海州史

内海州史

1986年ソニー㈱入社、本社の総合企画室に配属。その後、社内留学制度でWhartonでMBA取得。ソニー・コンピューエンタテインメントの設立、プレイステーションのアメリカビジネスの立上げに深く携わる。その後、セガ取締役シニア・バイス・プレジデントに就任し、ドリームキャストの立上げを経験。ディズニーのゲーム部門のアジア・日本代表時に日本発のディズニーゲーム作品『キングダムハーツ』の大ヒットに深くかかわる。2003年にクリエイターの水口哲也氏と共にキューエンタテインメントを設立し、CEO就任。ビデオゲーム、PCやモバイルゲームにて多くのヒットを輩出。2013年ワーナーミュージックジャパンの代表取締役社長に就任し、デジタル化と音楽事務所設立を推進。2016年にサイバード社の代表取締役社長に就任。現在株式会社セガの取締役CSO、ジャパンアジアスタジオ統括本部本部長。