業界のプロフェッショナルに、様々な視点でエンターテインメント分野の話を語っていただく本企画。日本のゲーム・エンターテインメント黎明期から活躍し現在も最前線で業務に携わる、エンタメ・ストラテジストの内海州史が、ゲーム業界を中心とする、デジタル・エンターテインメント業界の歴史を語ります。
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SCEAはHead QuarterをNYから、今のシリコンバレーがあるフォスターシティの北カルフォルニアに移します。後に久夛良木健さんと大喧嘩をして米国のローンチを見ずに退任してしまうソニー・コンピューターエンタテインメント・オブ・アメリカ(SCEA)社長のスティーブ・レイス(Steve Race)がその地域の出身という事と、ゲーム業界の人材がその周辺に多くいるという事が場所を選んだ理由だそうです。
因みに、すでに米国で成功していたセガはその隣街のレッドウッドシティに米国本社がありました。その後、SCEAが多くのセガ社員を雇うことになるのですが、そういう意味では非常に良いロケーションだったと思います。
スティーブはMBAホルダーで、既にゲーム業界も経験しており、マーケティング畑出身。自身もリーダーシップがあり、彼のネットワークも使ってスタッフを次々に雇い入れチームを作っていきました。スティーブは普通のマーケティングの会社であればとても優れた人材であったかもしれません。
ただ、技術に関してはそれほど精通していなかったのです。また米国ソニーのマネジメントから雇われていることもあり、米国のマネジメントと一緒にマーケティングの力でプレイステーションを成功させたいという気持ちと約束が強くあったのではないか、と今振り返ると感じます。
当時のゲーム業界の覇者であったセガが日本で技術を前面に押し出したメガドライブが成功せず、一方でマーケティングの力で大成功させたGENESIS(米国でのメガドライブの名称)の事例があったことも、多少は関係していたかもしれません。しかし、この方針は日本のSCE特に久夛良木さんの方向と全く逆だったのです。
その為すぐに色々な場面で、スティーブと久夛良木さんの衝突がみられるようになります。細かい施策に対して常にクレームを入れる久夛良木さんに、なぜ一介のエンジニアがそこまで口を出すのか、といつもスティーブは不満を口にしていました。確かに、当時の久夛良木さんはSCEの開発本部長ではあったのですが、SCEの社長ではありませんでした。
会社の代表でもなく、かつ過去に何か大きな成功を収めたこともない人物なのに、アメリカ側で進めているすべてのことに口を出してくるのを、日本のマネジメントが誰も止めない状況は普通の人には理解できなかったのです。私も久夛良木さんのことをスティーブほかSCEAのスタッフに説明していたのですが、ソニーの型から外れている久夛良木さんの動きには、私自身ですらよく混乱したものでした。