また、物語上の最大の仕掛けである「13年前の高校生の頃のしんのの出現」も、それをどう解釈するのかによって(セリフでこそ言わないものの)語ってくるドラマがある。
しんのがお堂に出現するのは、作中の展開から逆算すると慎之介が秩父にやってくる(接近してきた)タイミングだ。そしてその高校生のしんのはお堂から出ることが出来ないという制約が課せられているが、ある事件によって外へと出ることとなる。それを「物語上、盛り上げどころとして根性で出ることが出来た」と安易に見てしまうか。あるいは、そのこと自体が彼と彼女らの心にある別の事を描いていると見るのか。
そもそも高校生のしんのの出現は大人の慎之介による影響なのではなく、あおいの想いというものが実は大きいのではないのか。
「13年前のしんのの出現」と「その解放」に誰の想いがはたらいているのかを想像しながら物語を見ると、それだけでもちょっと見え方が変わってくる。
このように、描かれていること、語ってはいないが語られていることをどう見、読み取るのかで、4人のドラマの見え方が大きく変わるのがこの映画の仕掛けでもあり見所でもある。そしてそれをどう見るのかは、それこそ観客が「青春期がまだ実感としてある世代の人」であるのか、「すでに遠くなりにけりな世代」であるのかにもよっても異なる。
だから、もし10代でこれを見た人は、自分が30歳を過ぎたときにもう一度見返してほしい。その時に見える空は何色なのか?今と同じなのか、それとも異なっているか。もしかするとその時に、冒頭で僕が面白い“青春もの”を見るたびに若い観客に感じてきた嫉妬とは逆のことを感じるかも知れない。「ああ、上の世代の人らはこの映画がこう見えていたのか」という発見だ。
作中では「井の中の蛙、大海を知らず。されど空の青さを知る」という有名なことわざが引用される。この物語はまさにそれを描いたものだ。
だが、空の青さと言っても十人十色。かつて自分が見た空は何色だったのか。そこにあった青は今も同じ青に見えているのか、あるいはもっと鮮やかなものとなったのか。
何らかの節目に見返したい作品は幾多あるが、『空の青さを知る人よ』もまた僕の中ではその1つだ。
文 / 岡野勇(オタク放送作家)
『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』両作品に続く、長井龍雪監督、脚本家 岡田麿里、キャラクターデザイン・総作画監督 田中将賀らのタッグで描かれる、過去と現在をつなぐ、切なくてちょっと不思議な”二度目の初恋”物語。
監督: 長井龍雪
脚本: 岡田麿里
出演:吉沢亮、吉岡里帆、若山詩音/松平健
大地葉、落合福嗣、種﨑敦美
主題歌:あいみょん「空の青さを知る人よ」
販売元:アニプレックス
(C) 2019 SORAAO PROJECT
Blu-ray/DVD 販売中
空の青さを知る人よ 公式サイト:
https://soraaoproject.jp/