多くの原作の主となるコミックや小説やゲームは能動型メディアで、対してアニメをはじめとした映像やラジオは受動型メディアになる。映像化(アニメ化)というのは能動型メディアを受動型にコンバートする作業であり、映像化(アニメ化)におけるにおけるプラスアルファというのはそのコンバートの必要性から生み出される要素になる。
能動型メディアを受け手が“読む”場合、セリフまわしの速さや“間”はどうしても読者個々の読む速度や感覚に左右されてしまう。だが受動型ではセリフに関してだけでも“聴く”速度はあらかじめ作り手と声優によって生み出されたものが、誰が聴いても同じ速さ同じ言い回し同じ“間”となる。映像制作者や演者がそのセリフの言い回しやニュアンスや間をどう解釈したのかによって生み出され、その解釈と演じ方が見所・聴き所となる。
この“実際のしゃべり”がつくことの面白さや魅力は、数年前に放送された『昭和元禄落語心中』(および第2期『助六再び篇』)もそうだった。落語と落語家を巡る物語を描いた雲田はるこのコミックをアニメ化したこの作品では劇中でも数々の演目が語られることが見せ場である。アニメではその主役たちを関智一、石田彰、山寺宏一といったベテランが演じ、流暢な“噺”の面白さを伝えてきた。
『昭和元禄』しかり『波よ聞いてくれ』しかり、原作ですでにセリフがあり映像化でも台本があり、その上での声優によるしゃべりであるというのはわかっている。しかしそこから伝わってくるのは声優がそれをセリフとして演じているということ以上の、例えるならライブ感にも近いものだ。実際の噺家が演じる事とも異なる、実際のラジオパーソナリティが話す事とも異なる、声優の技術が生み出すならではの面白さと言ってもいいだろう。世代的に思い返せばかつての『うる星やつら』において千葉繁が演じたメガネがそうであったように演技プラス話術や話芸の技術だ。
『波よ聞いてくれ』に話を戻せば、僕はそこに冒頭で書いたラジオにおける魅力の“機転の早さ”と“話の隙間のなさ”に果てしなく近いものを感じてしまった。制作陣が原作を解釈し生み出した会話や話し方のテンポとリズムと“間”。それを声として見事に伝えてくる声優・杉山里穂の見事な滑舌。それらの全てが作品の題材ともなっているラジオの面白さと、その面白さとは何であるのかを再現している。まさにアニメ化(映像化)ならではのプラスアルファが生み出したことだ。 見ていて聴いていてとにかく楽しい。ミナレの怒濤のしゃべりを深夜に見ていると深夜ラジオの面白さそのものすら感じる。だからであるのか、僕はこの作品だけは深夜にリアルタイムで見ることがほとんどだ。いやほんとに「よくこの杉山里穂さんという声優に行き当たったものだなあ」とすら思わされる。
しかし、先に「今さらラジオが出来るかと言われたらそのスキルは無いのがわかっているのでムリ」と書いたが、このアニメを…というより、ミナレというキャラクターを見ていると、「こんな面白い奴とだったらやってみたい」とまで思わされてしまうのだ。
文 / 岡野勇(オタク放送作家)