新しく生まれる物がある一方、これまで通りのものでも“作り方”が変化する可能性が高い。なにしろ従来通りのままでは本格的な終息までの今後数年間は相当な制限が出てしまうのだから、考え直さなければならない。「新しく見つかった手段」「従来どおりの作り方から変わるもの」「従来どおりの作り方でなければダメなもの」が再構成されていく。
受け手にとってもこれは大きいだろう。ネットを中心としたライブ(実体験)以外の展開がこれまでよりも定着する一方で、かといって映画館に行くことやライブハウスに行くことが無くなるのかと言えば、そうも思わない。本当の終息がくるまでは制約が避けられないだろうが、とはいえ文化は体験することそのものに原始的な快感と楽しさがある。体験でなければならないものはその意義も価値もより明確になっていく。すでに多くの人が抱えている「映画館に行きたい!」「ライブハウスに行きたい!」「劇場に行きたい!」といった不満感情は文化快楽への飢餓そのものだ。
前記のように、いま僕らの目の前には擬似的な「文化が街から消えた世界」が見えているが、“コロナ以後”は何かが失われるのではなく、むしろ僕らを取り巻くカルチャーのプラットフォームを劇的に増やすことになるのではないか。共有体験のさらにその“次”となる楽しみ方がやってくるのかもしれない。
価値観で言えば、2年後くらいから目にすることになる世界中の映像作品や音楽などは“コロナ以後”の時代と世界をどう捉え考えているのかといった作り手の視野が(意図的であるかどうかすらも無関係に)影響をしてくることになる。その「これから(“以後”)をどう考えるのか」は、そのまま「これまで(“以前”)をどう見て考えていたのか」という自身の認識の再検証であることと同じだ。
“以前/以後”を自分自身の中ではっきりさせておかないと、後に2020年前後のアニメや映画やコミックや小説などを語る機会が訪れたとき最も重要な前提が曲がってしまうし、作り手のメッセージを見誤ってしまう。
現実逃避混じりで記したが、とはいえ僕は本当にそういう変化を信じている部分もあるのだ。そう考えるとあらゆる物が失われただの、緊急事態宣言の中で何も出来ないだなんて言っている場合でもない。趣味分野においても思っていた以上に「いまだからこそ自分自身の中でやっておくべき事」が多い。
“想像と準備”こそが危機対策の原則だそうだ。今の事態においてもこれをしていた国・地域と、していなかった国・地域の状況は大きく異なっている。だが僕はこれは危機についてだけではないと考えている。娯楽においてもこの先に起こりうる変化に対し“想像と準備”という娯楽対策とでもいうようなことをしていたかどうかで制作のありかたも、受け手の視点の位置も理解力も大きく変わってしまう。
暗闇を抜けた先の時代を楽しむために。楽しみにしていたものの延期となった数々の作品や公演を心から楽しむために。だから今はとりあえず我慢をしよう。失う物はもちろんあるだろうが、しかしその中で少しでも新しい何かを得ることが出来たなら、それこそが本当の「災厄に負けなかった」と叫べる状況なのではないか。
文 / 岡野勇(オタク放送作家)