『ラブライブ!』シリーズでは作品中においてオーディエンスの存在を強く描くことが多くない。かといって観衆の存在を軽視しているのではなく、むしろ逆だ。かなりポイントを絞った使い方であり、それゆえオーディエンスが描かれる場合は、そのこと自体に明確な演出意図が存在している。彼・彼女らは画面上のただの観客という記号ではないのだ。
劇場版に絞って書くと、前劇場版『ラブライブ!The School Idol Movie』のクライマックスである秋葉原での路上ライブシーンでは、それだけの場所での一大イベントでありながらも観衆が設けられていない。全国から集まったスクールアイドルたちしかいない空間になっている。当初少し困惑したが、しばらくして「つまりこの作品にとってオーディエンスは作品の“映像の中”に描かれている存在なのではなく、今劇場でスクリーンを見ている観客の僕らそのものなのだ」と気づかされた。『ラブライブ!』におけるオーディエンスは映像中で描かれている“誰かという記号”ではなく僕ら観客・視聴者。アイドルが歌い観客がそれを見ているという“描かれたこと”を見ているのではなく、目の前で“起こっていること”を目撃しているのだ。前作はこのことが参加型上映でなくともアニメのアイドルを直に体験できる位置にまで引き寄せていた。画面内に観衆を描かないことで生み出したライブ感だ。
対して今作もライブシーンの見所はいくつも設けられているが、今作は前作と意図的に多くの視点を変更しており、オーディエンスの存在も若干変わっている。PV的なオープニングのライブでのオーディエンスは前作同様に劇場で見ている僕ら観客だ。だが中盤の見せ場であるイタリアでの広場ライブでは(それはもちろん僕らも観客ではあるのだが)広場に描かれている多くの観光客が描写される。「Aqoursを続ける」という決意表明を作品の中での世界全てに向けて示す場面であり、それゆえにここでは作品世界の他の人たちがいなければならない。TVシリーズ第1期最終回ではゼロから始めた彼女たちが多くの観衆に向かって“自分たち”を高らかに伝えるクライマックスが感動を生んだが、それと近い意図がある。 そしてクライマックスのライブパフォーマンス。ここはそのどれとも異なり、オーディエンスが特定の誰であるのかが明確という、考えてみるとこのシリーズの中では珍しいライブシーンとなる。ここでの主たるオーディエンスは学校の新たな生徒たちであり、自分たちの活動を認めさせたい誰かであり、去って行く3人の先輩となる。悩んだ末に彼女たちが出した“この先”への答を“誰か”に伝えるためのライブだ。見終えての印象が前作と少々異なることに戸惑いを感じた人もいたようだが(それは僕自身もだったのだが)、その理由はそういうことにもあるのではないかと思う。これまでは作品に観衆(ファン)がついて行ったが、ここに来て観衆(ファン)に作品が近づいてきたように感じた。
だが前記したように、今作はあくまでAqours(アクア)編にとって途中のエピソードだ。今作が描いたこと。試みたオーディエンス描写。それがどういう意味を持っていたのかが明確化し繋がっていくのはAqoursの活動が描かれる今後の作品とリアルメディアにおける声優ユニット・Aqoursの活動がどのように広がっていくのかになるのだろう。彼女たちが掲げてきた「0から1」の先だ。『サンシャイン!!』は前作『ラブライブ!』以上に声優ユニットでの展開も大きく広げている。メディア展開も多岐にわたり、まだ拡大中だ。18年には東京ドーム公演を行い、昨年末には『紅白歌合戦』にも出演となった。
アニメ作品が生み出す“その先”と声優ユニットが感じさせるライブ感が融合し、もはや「どちらがどちらの関連展開」というビジネスライクな意味や分け方は、少なくともオーディエンス側には無くなっている。この現実そのものが“この作品で描いたことのその先”なのかもしれない。
従来のアイドルアニメとは異なり、近年のそれは声優ユニットなども含め外(リアルメディア)にまで広がりを見せるものが多い。僕のように50歳以上の年齢でアニメ+アイドルといえば『超時空要塞マクロス』のリン・ミンメイが真っ先に思い出される人も多い。その登場はアニメにおける事件であったと思うし、僕も熱狂した。だがミンメイはあくまで“アニメのアイドル”だった。しかし、今のアイドルアニメのそれは“アニメから生まれたアイドル”と言う方が正しい。リアルメディアのアイドルと存在意味は何ら変わりが無くなってきており、バーチャルアイドルという物とも一線を画している。現実と虚構(アニメ)をシームレス化し繋ぐもの。それが今のアニメアイドルなのだと思う。
文 / 岡野勇(オタク放送作家)