Jan 03, 2019 column

『2001年宇宙の旅』リバイバル上映が写し出した映画の未来と課題

A A
SHARE

これほどの名作であっても、かつてと同じ環境・同じ条件で再公開し見ることが不可能になっているという事実。実際、いくつかの手段で再上映がかかったものの、キューブリックが制作時に意識した規格であるシネラマでの上映はされていない。(シネラマとは、ざっくりした説明になるが「3台の映写機を使って湾曲した巨大スクリーンに映す上映方式」…とでも言えばいいだろうか) 日本にはすでにシネラマ上映が出来る劇場が無いのだ。物理メディア(フィルム)の保存のみではなく、それを上映できる映写機の動態保存や上映ができる環境維持の重要性と難しさが浮き彫りとなった。(このへんはゲームやパソコンソフトのアーカイブにおいてハードウェア動態保存も重要であるのと同じだろう) アーカイブ後の運用についても「こういうことが可能になる」という提示はなされたが、一方で必須である4K化/8K化がコスト面からおいそれと進んでいくわけではないであろうことを認識させた。アーカイブの現実はあまりにも困難で細く、ともすればすぐに崩れてしまいかねない橋の上に立っている。

さらに厄介な問題・課題も多い。映像は映写機の動態保存がカバーできるのだとしても、音響はどうだろう。音響システム技術も大きく進歩し変化してきたのがここ四半世紀の映画だ。かつてはただのステレオだったが、今では何チャンネルだ、なんとかステレオシステムだと日進月歩。一体いくつのフォーマットがあるのかわからないほどだ。一方でその最新の音響システムを演出として活かした作品も多い。最近は優れた音響演出やサウンドデザインがされた作品に出会うたびに(それが優れているほど)、「この“いま見て、聴いているオリジナルの状態”がどのように保存されるのか?」が気になってしまう。後世で再生環境が違っていては(あるいは失われていては)作品を遺したと言えない。音響もまた今後の映画アーカイブ課題の1つになっていくのではないかと思う。

アーカイブとは作品を保存することだけなのだろうか。映像と音声がとりあえずわかればいいのか?それともオリジナル同等として遺ることなのか?ではそのオリジナルである上映に映像と音声“以外”の要素があった場合はどうなるのだろう。その“作品”が意味する範囲が大きく変わる。

50年代のアメリカ映画界にウィリアム・キャッスルという名物製作者がいた。この人はいくつかの作品の公開でギミック(仕掛け)を仕掛けたことで有名だ。たとえば観客席に電流が流れる仕掛けがしてあり、劇中のショックシーンに合わせて観客を実際にビリビリッ!とさせる。まさに現代の4DX劇場の先駆けのようなアイデアであるが再現が難しく、公開当時本来の姿での再上映が難しい。それゆえ昨年のカナザワ映画祭2018においてギミック付きの再現上映がされたことはちょっとした話題となった。

現時点で4DXはすでにある映画にギミック効果を付加して上映するアトラクション上映的な側面が強い。この場合、あくまでオリジナルは“すでにある映画”の方だ。だが、もし「4DX上映を演出意図として仕掛けたオリジナルとし、一般上映はあくまでそこからギミックを差し引いたもの」という作品が生まれたら?それの保存はどうなるのだろう。(僕が知らないだけで、すでにあるのかもしれないが) 4DX以外の要素であっても同じだ。例えば世界中で大ヒットしたキャメロンの『アバター』(09)は3Dであることが演出意図として機能し、企画コンセプトにも大きな意味を持っている。マーティン・スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』(11)では3Dであることが映画史を辿るテーマと直結している。そのため、これらの作品は3Dであることをも遺さなければ意味が失われてしまう。 19年以降がどうなっていくのか。映画保存は想い出を守り残すためだけのものではない。そこに込められた演出や撮影などといった全ての技術をも遺す作業だ。遺されるからこそ次へと、さらに未来へと繋がっていく。コストに人材といった多くの壁が立ちはだかるが、真剣に考えていかねばならない問題だ。コンテンツを売っていく時、同時に保存コストをも踏まえる時期に来ているのではないだろうか。