Apr 27, 2018 column

『リズと青い鳥』が描きだす青春映画の本質 アニメとリアルの狭間が奏でる少女たちの感情

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この映画は青春劇だ。だが、ひとくちで青春映画といってもその種類は多岐になる。恋愛物であるのか、ノスタルジックな物を感じるのか、あるいは何かにひたむきになる作品か。いや、それらは設定やあらすじだ。もっと根源的な、青春映画を青春映画たらしめる核(本質)は何なのだろう。この映画からはその答えが少し見えた気がした。人生の中でたまたま誰かと交錯した、長い目で見れば一瞬でしかない時期。その一瞬が切り取れているのかどうかにあるんじゃなかろうか。 希美とみぞれのこの物語も、10代のある時期に出会い交錯した一瞬であるのかもしれない。その一瞬にある小さな幸せや不安をまとった心情を、ガラス細工に触れるように、そして音楽を奏でるように描いている。作中では大きな出来事は起こらない。だが、彼女らにとってはとても大きな事件が起こっている。自分でもわからない自身の心にある真実を探っていく様は、美しく繊細なミステリーのようだ。

その繊細さを見事に表現していたのが、登場人物たちが見せる動作であり“アニメにおける演技”だった。みぞれがたまに見せる髪にふれる仕草、希美が肘をつかむ癖。息づかいすらも伝わりそうな距離で見せるちょっとした目の動き。そして言葉以上に雄弁なものであるオーボエやフルートの演奏描写の細やかさ。 画の動きを考え、アニメーターが描き、声優の声が加わり、本作ではさらに個々の演奏の音が加わって“アニメでの演技”というものが生まれてゆく。命を吹き込むとは上手い言葉であると思う。この人物はどう動くのか、そのときにどういう仕草をするのか。実際の人ならどういう反応をし、どのような動きをみせるのか。その感情を含めた演奏をどう描くのか。それを人が生み出す以上、その演技は演出家やアニメーターや声優によっていくらでも変わる。ボタンを押せば同じ物が自動生産されるわけではない。改めてそれを考えてしまうほどに、『リズと青い鳥』での指先にまで気をつかった動かし方には心を奪われてしまった。

とにかく動きまくる作品や緻密な動きをする作品に対し、アニメファンから「作画が凄い」という評価がでることがある。だが本作をその言葉で表すのは何かが違う。現実の動きをアニメで緻密に再現するタイプの作品とも異なる気がする。やはりそれは「作画が凄い」のではなく「アニメならではの演じさせ方が凄い」という印象だ。全編がアニメという手法であることをフルに活かしている。話を「見せる」のではなく「感じさせる」作品だ。観客の心に響く微妙な心情からは、画で描かれている希美やみぞれから明確な存在感や身体性すら感じるのだ。アニメであるがゆえのリアリズムという不思議な感覚が、映画が終わっても交錯した時間の先にいる彼女たちを感じさせてくれる。それがとても心地いい。