Mar 03, 2018 column

『あの花』から『さよならの朝に約束の花をかざろう』へ 脚本家・岡田麿里が監督として描いたもの、通底するテーマとは?

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どんな人気作品・有名作品であってもアニメファン以外の人は脚本家の名前まではあまり気にしない。クリエイターとしてクローズアップされるのはたいていが監督になる。その中にあって岡田麿里はやはり希有な存在だ。現在発売されている文芸・芸術総合誌『ユリイカ増刊号』において『岡田麿里特集号』が作られているという現状だけでも相当に特殊なことだ。 岡田麿里脚本作品ではメジャー作でもあり『あの花』『ここさけ』といった現実が舞台の青春物の印象が強い人は多いと思う。そういう人の中には今作が異世界ファンタジーであるということで距離を感じてしまう人もいるかもしれない。だが、人間関係をどう描くのか、作品の根底に流れている物は何なのか、何に感動をさせられるのかは間違いなく岡田作品だ。

アニメにおいて“脚本”の役割や作品におけるウェイトを語るのはとても難しい。実写映画やドラマとは制作プロセスが全く異なり、作業の過程でセリフや描写を変えることや変わることも珍しくはない。それゆえ作品に実際に携わっている人以外には脚本を完成作品から読み解くことは困難で、視聴者や観客にとってはなおさらだ。 それでも“脚本家・岡田麿里”が多くのアニメファンから注目をされてきたのは、原作物が多い近年のTVアニメにおいてオリジナル脚本作品を多く手がけていること。オリジナルも原作物も、それがどのようなジャンルの作品であっても魅力的であったこと。そして、どれにも“似た匂い”が刻印されていたからだ。 個性というのはこれ見よがしな自己主張のことではない。どんなに消そうとし、本人は消したつもりになっていても消えていないもののこと。どんなジャンル、原作作品や、誰による監督作品であっても「脚本:岡田麿里」とクレジットされた作品の多くから僕が感じた匂いは、それこそが岡田麿里という脚本家の個性であり、僕がこの人が手がけてきている作品が好きであるのも、それに惹かれてきたからだ。

『true tears』『あの花』『ここさけ』『キズナイーバー』といった青春物にあった居場所の希求や周囲との壁、痛み。『凪のあすから』で表現された他者と共有できない人生。『鉄血のオルフェンズ』が突き進んだ生きる力。『花咲くいろは』やいくつかの作品で鍵となっていた“親”。そしてその登場人物たちは皆、けっして生き方が上手くないと思う人たちだった。僕が共感をし惹かれたこの部分は、おそらく岡田監督のとてつもなくパーソナルな部分に由来するのだろう。

『ここさけ』公開後に刊行された岡田麿里自身による自伝『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』(文藝春秋)では小学校から不登校気味となり、中学1年からの5年半を不登校児として過ごした自身のことが綴られている。実は刊行後に読み始めたときに怖くなった。読むこと自体があまりにもこの人のパーソナリティに踏みこんでしまう怖さ。しかし読み終えたときに、この人がアニメで描く苦さや周囲との距離や繊細さや感受性の原点、居場所の渇望。端的でひねりがあるセリフでそれをズバッと投げてくる感覚。そしてなにより生きることへの選択の覚悟が垣間見えた気がした。その垣間見えたものが岡田麿里の「隠そうとしても隠しきれない個性」であり、それは今作『さよ朝』でも全編にわたって刻印されている。『tt』も『あの花』も『花いろ』も『凪あす』も、全てが『さよ朝』に繋がっている。それでいて物語の描き方は新たなことに挑んでいる。