Mar 03, 2018 column

『あの花』から『さよならの朝に約束の花をかざろう』へ 脚本家・岡田麿里が監督として描いたもの、通底するテーマとは?

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とても幸せな気持ちになって映画館を出た。満席だった場内はエンドクレジットが流れはじめても誰1人席を立たず、そこかしこからすすり泣きが聞こえていた。明るくなって席を立ったら、後ろの席の青年はボロボロ泣いていた。

アニメ映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』(http://sayoasa.jp/)が公開された。

人の世界から距離を置き、人間よりも遙かに長い年月を生きる不老長寿(不死ではない)の種族・イオルフの民。彼女たちの国は、その長寿の血を取り込むことで繁栄を望む人間によって滅ぼされる。 なんとか逃げ延びた主人公・マキアは、道中で母の亡骸に抱かれたまま泣いている1人の赤子に出会い、彼を息子として育て始める。母ではなかった少女が母となり、人の中で生きていく。しかし、歳月の中で彼女たちをとりまく関係は徐々に変化をしていき…。

アニメファンでなくともTVアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以下『あの花』)、アニメ映画『心が叫びたがっているんだ。』(以下『ここさけ』)は知っているかもしれない。本作『さよならの朝に約束の花をかざろう』(以下『さよ朝』)はそれらの脚本を手がけた岡田麿里による初監督作品。もちろん脚本も岡田によるもの。 今作では岡田が脚本を手がけた『黒執事』『凪のあすから』などで監督を務めた篠原俊哉が副監督に。さらに平松禎史といったベテラン勢が脇を固めているとはいえ、ほんとに初監督作品かと思うほどの堂々とした作品となっていた。東地和生によるとてつもなく美しい背景美術で再現された風景は登場人物たちの心象をも反映し、全編の映像も音楽も全てが観客を取り込んでくる。

『さよ朝』は2人の女性と、彼女たちの子供の物語だ。だが単純な母子物でも女性の物語でも、ましてやファンタジーという言葉で括れるようなものでもない作品となっている。 人間と同じ人生の時間を歩むことが出来ないという主人公の特殊な設定は、この作品でとてつもなく大きな意味と役割を持っている。異世界が舞台の特殊な設定であるから描くことが可能な狂おしいほどの母と子の寓話であるが、そこで描かれる感情は誰の近くにもある、とても実感のあるものばかりだ。マキアたちは選択した自分たちの生き方を完遂しようとあがく。この作品は「生き方の物語」なのだ。

正直、見終えた直後に困惑をした。なぜ自分がこんなにも心をかきむしられ感動しボロボロと泣いたのかの感情の整理がつかない。それでいて、とてつもなく幸せな気分だった。 劇場を出たときに風景が違って見える映画というのがある。この映画もそれだ。街の風景が違って見えるのではなく、そこに行き交う人々の見え方が違うのだと気づいた。道行く親子たちに自然と目がいった。自分の母のことを考え、そして自分のことを考えた。その見え方が見る前とは変わっていたのだ。 この作品は親の立場で見るのか、子の立場で見るのか。何歳で見るのか。どういう境遇の時に見るのか。あるいはそのいずれの視点でもないのか。それによって見え方が違うし感じ方も違う作品だろう。 男である僕はどうしても「息子である僕にとっての母」を考えてしまう作品だったし、同時に自らの居場所を希求するドラマにも、社会との距離の描き方にもかきむしられる物があった。 正直(こういう記事を書いておいてなんですが)、あまり事前情報は入れずに見た方がよい作品かもしれない。だが、多くの人が自分の人生を取り巻いてきたとても多くの感情や想いを考え、感じると思う。そしてなにより、僕がとにかくこの作品を見て欲しいと思ったのは、息苦しさを感じたまま、けっして他者から上手な生き方をしていると思われないような人たち。僕自身もそうだからだ。