いわゆる“バリキャリ”のルーシーは、成婚率の高い腕利きのマッチメーカーだ。物語は前述した彼女自身の恋愛と、彼女が向き合う現代の婚活事情が並行して描かれていく。ルーシーの元を訪れる依頼人たちは、相手に求める条件を次々と並べ立てる。興味深いのは、国も時代も違えど80年代バブル期に日本で流行した「高収入・高身長・高学歴」=3高を求めるユーザーが現代NYを舞台にした本作に多数登場すること (特に女性)。対して男性は、相手に「若さ」を求めがち。そして双方ともに「美貌」は言わずもがなチェックリストに入っている。そのくせ、自分も選ばれる側である認識がすっぽり抜け落ちているのだ。例えば40代後半の男性が20代前半の女性と結婚したいという希望を出したとして、その条件が相手にとって魅力的かという点まで考えが及ばない。お互いにWIN-WINでなければカップル成立に至らないのは自明なのに、「なぜ相手がわざわざ20歳も年上の男性を選ぶと思うのか?」、究極的にいえば「ハイスペックな人がロースペックな相手を選ぶ理由は? 」と問われると答えに窮してしまう。とはいえ、これはニューヨークも日本も、ひょっとすれば万国共通の“あるある”でもあるのだろう。この部分は、どうしようもない「人間の本質」と、今の時代だからこそ浮かび上がる「結婚相談所の存在意義」の両面を指し示している。

ルッキズムから抜け出そう! が社会的なスローガンとして認知されたとしても、人を物質主義的に品定めするグロテスクさをわかっていたとしても、一生を添い遂げる相手を選ぶならつい好条件を課したくなってしまう。時代の空気とズレていたとしても、だ。いやひょっとしたら、物価高騰が止まらない現在こそその傾向は強まっているかもしれない。本作はそうした人の性 (さが) を、ありありとさらけ出してしまう。そしてだからこそ、結婚相談所ないしマッチメーカーが必要とされるのだ。マッチングアプリでは大抵の場合、ユーザーが自己アピールをしてカップル成立までたどり着かねばならない。気軽に始められるということは、ライバルも増える=相手にも選択肢が多いということ。そんな環境で無理めの高望みが通る可能性は低く、マッチメーカーが仲介してくれる結婚相談所のほうが融通が利きやすいというわけだ。将来の不安が増し、一人で生きていくことに経済的・精神的なリスクを感じる人もいることだろう。結婚が当たり前ではなくなり、選択肢が増えたいま、「するもの」ではなく「したいこと」として需要が高まっているのかもしれない。
劇中ではルーシーのクライアントが「一人で何でもできるのに多少なりとも縛られる結婚の道を選んだ私は、自立した女性ではないのでは?」とマリッジブルーに陥る姿も描かれ、実に現代的だ。『マテリアリスト』は序盤からこうした“事情”を丁寧に描いており、先述したような「なぜ今?」感は早々に解決する。そして、ここが実にセリーヌ・ソン監督らしい点だが――彼女はこうした人間の利己的な素顔を冷笑的に見つめない。それどころか「人間ってしょうがないよね」といったような親愛を込めて包み込んでおり、作品全体に優しい味わいを付加させている。人間の残酷さをシニカルに突き付けたり登場人物を突き放すことなく、きちんと見つめたうえで欠点すらも愛そうとする姿勢――そのまなざしで以て、本作は傍観の時代にあって特別な温度を宿した一作に仕上がった。


