命のやり取り、戦争の痕跡
「観客を運転席に座らせたかった。パワフルなマシンの荒々しい美しさを、ハンドルを握るドライバーの視点で感じてほしかったし、ドライバーの感じていることを体験してほしかった」――。カーレース映画としての『フェラーリ』を、マンはThe Los Angeles Timesのインタビューにてこのように語っている。
確かに本作は企業劇・家族劇であり、イタリアの大企業をアメリカの視点から描いた『ハウス・オブ・グッチ』(2021)にも似ている(アダム・ドライバーが出演しているのも共通点だ)。しかし大前提として、これは確かに“カーレース映画”なのである。それもかなり極端で、きわめて恐ろしい種類の。
映画の中盤でエンツォは、レース中にライバルと競り合うなかでブレーキを踏んだドライバーのアルフォンソ・デ・ポルターゴを強く叱責する。「レーサーというものは、誰もが自分は死なないと信じている」「勝つために走れ、ブレーキは忘れろ」
すなわち観客が乗り込む運転席は、決してブレーキを踏むことが許されない極限状態の空間、ドライバーたちが命のやり取りをする現場なのだ。だから本作の“ドライバー視点”には、カーレース映画に見られる高揚感や興奮ではなく、死と隣り合わせの緊張と恐怖がある。たった一瞬の判断を誤れば、ほんの数センチでも走る位置がずれれば、そこには死が待っている。美しいマシンはただの鉄の塊に、人間は肉の塊になる。
『フェラーリ』の恐ろしさは、その「一瞬」をとらえたところだ。ドライバーのエウジェニオ・カステロッティはエンツォの眼前で事故死するし、また終盤には想像を絶する事態が起こるが、どちらも死はあまりにもあっけなく、そして残酷なのである。カーレース映画よりも戦争映画に近い描写の理由は、単に「レースは人の生死を左右するものだから」というだけではないだろう。結局のところ、すべてはエンツォの精神の反映であるはずだ。
史実のエンツォは第一次世界大戦から生還してドライバーになったあと、仲間の死を悼むことこそあれ、自らは現役引退を無事に迎えることができた。言いかえれば、彼は二度にわたって過酷な戦場を、周りが次々に命を落としていった環境を生き延びたのだ。さらには息子のディーノさえ失いながら、彼はチームを指揮する立場として、ドライバーたちを戦場に送り込む。「死を恐れるな」と言いながら、自らが“死にそびれた”戦場に若者を向かわせるのである。
本作における無常な死の表現は、そんなエンツォの死生観を映画として解釈したものであり、また第二次世界大戦の12年後に残っていた戦争の痕跡を映したものとも考えられる。もちろん“戦争の痕跡”が、あらゆる意味でエンツォ自身の傷につながっていることは言うまでもない。