Jul 05, 2024 column

『フェラーリ』カーレースと人生の無常、追いつめられた王の悲劇

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ねじれた人間関係のなかで

ジェームズ・マンゴールド監督の『フォードvsフェラーリ』がエネルギッシュなカーレース映画で、レーサーとカーデザイナーたちが織りなす情熱的な人間ドラマだったとするならば、本作『フェラーリ』はとことん醒めた愛憎劇である。映画の中心にあるのはポジティブな情熱というよりも、真綿で首を絞められるような苦しみと怒り、執着心だ。

映画の冒頭、エンツォは妻のラウラがまだ眠っているベッドを抜け出して、愛人宅へ車を走らせる。公の場ではライバルのマセラティ社と記録を争いながら、彼は私生活でも別の争いに身を投じているのだ。怒り狂ったラウラが発砲した銃弾は、エンツォの背後の壁に突き刺さった。亡きディーノの墓前で、エンツォは「いつか本当に私を撃つだろう」と口にする。自分も妻も以前とは変わってしまったと。

家族の状況は決して好ましいものではない。ディーノの墓に向かって、エンツォは過ぎ去った時間を悔やむかのように「お前に会いたい」と涙を流す。母のアダルジーザは、戦争で死ぬべきだったのは兄ではなくエンツォのほうだったとこぼす。もはや、親子関係も夫婦関係も正常に機能していないのだ。

原作者のブロック・イェイツが記したところによると、史実のエンツォは大変な浮気者であり、ラウラとの新婚生活はわずか数ヶ月で破綻、複数の女性と関係を持っていたという。しかも肉体的・性的な快楽のためではなく、自身のエゴのために、生涯にわたり性的関係を求め続けていたというのだから、彼の根源に精神的な問題があったことを推測するのはたやすい。間接的な描写も含め、本作ではそうしたエンツォの一面を随所に見ることができる。

一方で経営者としてのフェラーリは、そうした家庭の問題をかなぐり捨てようとするかのようにレースに邁進し、また周囲や記者たちを巻き込みながらビジネス的な策略を張りめぐらせる。しかし、そこに透けて見えるのもやはり自らのエゴだ。劇中のエンツォは、しばしば自らを愛情深く面倒見のよい人間として評価するが、チームのレーサーに対しても、まるで彼らを人間扱いしていないような冷酷な態度を垣間見せる。

アダム・ドライバーは撮影当時39歳ながら、59歳のエンツォになりきるべく、本人の話し方や歩き方、呼吸のしかたまでリサーチ。かくも自分勝手で乱暴なエンツォの人間像を、さまざまな葛藤を抱えた人物としてナイーブに表現した。その一方、マンは妻のラウラが受けた心の傷と、それでも倒れない強さを表現。ペネロペ・クルスの演技がすさまじいのは、全編を通じてエネルギーが高まりつづけることと、その動力源が怒りや悲しみ、寂しさ、絶望感であることが明瞭に伝わるところだ。