Aug 20, 2017 column

第2回 『娘と私』から考える、なぜ朝ドラのお父さんはダメ人間が多いのか?

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お父さんの親馬鹿っぷりが面白い『娘と私』

 

『悦ちゃん』と同じく、獅子文六は、娘が幼い時に妻を亡くしている。53年から56年の間雑誌に連載された『娘と私』は、新しいお母さんを迎えて、娘を育てあげ、やがて娘が嫁に行くまでの月日を振り返った、彼の唯一のノンフィクションだ。36年に新聞連載された、獅子の初期作品にして出世作『悦ちゃん』は、獅子が最初の妻を亡くしたばかりで、再婚相手を探している時のことをモチーフにして、面白おかしくフィクション化したものだったのだろう。『悦ちゃん』のパパ役を演じているユースケ・サンタマリアが『悦ちゃん』を朝ドラ化したいとコメントしたわけもナットク。『悦ちゃん』と朝ドラは親戚みたいなものと言って良さそうだ。

ドラマ『悦ちゃん』を観ていると、朝ドラ『娘と私』も観てみたくなるが、残念ながら、映像はほとんど残っていない。我々一般人が唯一観ることができるのは、最終回で、NHK番組公開アーカイブで公開されている。それを観ると、『悦ちゃん』のようなコミカルな感じはなく、どちらかというと格調高い印象だ(モノクロだからかもしれないが)。原作『娘と私』のあとがきには、実際の作家自身よりもドラマの主人公(北沢彪)は「ほんとに優しく、ものわかりよく、誰にでも好かれそうなーーつまり、私と反対の人物らしい」と書いてあった。

原作では、ただただ、娘のことを考え続ける、娘コンというのか、要するに、親馬鹿なモノローグが、延々402ページ(あとがきなども含む)にわたって書かれている。それが素敵に感じるか、呆れるかは読んだ人次第。きっとドラマも、1年間、主人公がモノローグで娘についてやきもきしていたに違いない。一見、それなりに厳格で、知的なお父さんが、澄ました顔をしながら、心の中では、娘のことばかり考えているなんて、とても微笑ましいではないか。最終回、娘の結婚式で、娘の姿を「上出来だ」と賞賛したり、「私は涙した」とナレーション(主人公のモノローグ)が語るところを観ると、昔のお父さんは、家父長としてデンと構えているというのは現代人の勝手な想像で、実は、『モテキ』(原作は漫画。ドラマ化は2010年)の主人公が、好きな女の子のことを延々考えてモノローグを語っていることと、たいして変わらなかったのかもしれないと思えてくる。

このドラマ、きっと今観ても、楽しめると思う。「私は涙した」と言っている場面では、泣いている顔がしっかりアップで映っていて、言わなくてもわかるわい! とドラマツッコミセンサーが即、発動するが、これこそが、当時、心がけられていた、主婦が台所でお皿洗いながら、耳で聞いているだけでも内容がわかるような作品づくりなのだろう。そう思うと、少し感動する。とりわけ、『娘と私』はラジオドラマだったものをドラマ化したものらしく、説明過多になるのも無理はない。

 

感謝してほしい女ゴコロをくすぐる

 

とにかく、『娘と私』のお父さんは、前述したように、娘のことばかり考えている。原作を読むと、再婚は娘のためであることがわかる。そのため、後妻とは子供を作っていないのだ。さらには、後妻をもらわず、女中に女と母の役割を果たしてもらっていたらしき知人に対して、疑問を呈するところもある。やがて、「育メン」という発想がポピュラーになっていくことを、獅子文六が知ったらどう思っただろうか。

結果的に、小説家として生計を立てていけるようになるとはいえ、最初の頃は、『悦ちゃん』のお父さんと同じ、仕事がなかなかお金にならなかった獅子は、あとがきで、『娘と私』は、そんな自分と結婚して、娘のために尽くして、嫁に行くところを見ることなく、亡くなってしまった後妻に「献げてある」本なのだと書く。

朝ドラ第1作、『娘と私』は、男性の目を通して、妻への深い感謝や愛情、娘を慈しむ心が描かれた、まさに女性讃歌だった。そして、家族というものがどうやってできあがるか(子供を生み、育て、独り立ちさせる。いわゆる命のバトンを繋ぐために人間は生きている)を見つめたドラマなのだった。つまり、第1作にして、朝ドラの骨子はしっかり出来上がっていたといえるだろう。それが、その後、半世紀以上、守られていることを強く感じて、胸が熱くなる。
また、『娘と私』や『悦ちゃん』を読むと、娘のため、と大義名分を掲げながら、その実、ひとりでは何もできない人間の弱さが描かれているように思う。フィクションであるはずの『悦ちゃん』のほうが、その弱さ(それをダメ男としているのだろう)が如実に出ていて、フィクションだからこそ、本当を晒せることもありそうだ。

こうして、今も、朝ドラのお父さんや旦那さんたちは、極度なダメ人間となり、女性が言われたい「がんばってるね」とか「君のおかげで助かっている」とかいう承認欲求をくすぐり続けているのである。結局、お互い様なのだけれど。
朝ドラの男が、どこかに行ってしまうのは、それに疲れた時なのかもしれない。そういう意味では、『娘と私』のお父さんは、与えられた役割がいやになって、物語の外に逃げ出すことをせず、娘や妻のみならず、自分をも見つめ続けた人だ。立派だ、立派だよ!

それともうひとつ、『娘と私』のあとがきで獅子は、“昭和28年の新年号から、31年の5月号まで、三ヶ年半にわたって、「主婦の友」に載った。その長い間、私は「筋」というものを考えないで、物語を書く経験をしたわけであるが、私の一つの発見は、人生の中に、ずいぶん、「筋」があるということだった。”と書いている。たわいない、日常の中に、「筋」がある、これもまた、その後の朝ドラが引き継いでいる。

 

作品紹介

 

連続テレビ小説 第1作『娘と私』

1961年4月〜1962年3月放送 
制作:NHK東京 
原作:獅子文六 
作:山下与志一 
出演:北沢彪、北城由紀子、加藤道子ほか
時代:1925年〜1951年
パリで出会って結婚した妻エレーヌは、幼い娘・麻里を残して、亡くなる。主人公の「私」は、麻里には女親が必要と思い後妻をもらう。それから麻里が成長し、結婚してパリに旅立つまでの日々を描く。

木俣冬

文筆家。著書『みんなの朝ドラ』(講談社新書)、『ケイゾク、SPEC、カイドク』(ヴィレッジブックス)、『挑戦者たち トップアクターズ・ルポルタージュ』(キネマ旬報社)、ノベライズ「連続テレビ小説 なつぞら」(脚本:大森寿美男 NHK出版)、「小説嵐電」(脚本:鈴木卓爾、浅利宏 宮帯出版社)、「コンフィデンスマンJP」(脚本:古沢良太 扶桑社文庫)など。 エキレビ!で「連続朝ドラレビュー」、ヤフーニュース個人連載など掲載。 otocotoでの執筆記事の一覧はこちら:[ https://otocoto.jp/ichiran/fuyu-kimata/ ]