映画『椿の庭』には間違いなく日本人の香りが立ち上っている。本作に登場するような「庭」はもはや絶滅危惧種だろう。必要最低限の平米に陣取り、自然を感じる余裕はなく、外界との境界線はフィジカルで明確なもの、これが現代の家だろう。四季の移ろいを肌で感じ、植物や生物とともに暮らす、それはもはや過去の遺物になりかけている。だが、今だからこそ「庭」に現れる“心の在り方”は、アジアで、世界で、大事にしていくべき価値観なのかもしれない。世界的な写真家であり、様々な美にレンズ越しに対峙してきた上田義彦監督。脚本・撮影も自身で行い、失われゆく美しさを物語として描いた本作。物語の奥行きとともに、美しさを切り取る手前のプロセスを、監督自身に難しくも言語化して頂いた。本インタビューを読んで頂くと、少しだけ日常の見え方が変わるかもしれない。
『椿の庭』は4月9日(金)、シネスイッチ銀座他で全国順次ロードショー
— 率直に美しい映画でした。私は安易にすぐ花言葉を調べてしまいましたが「椿」の花言葉には「控えめな美しさ」という意味もあるそうですね。
特に花言葉を意識したことはありません。この物語を描き始めた15年前に、当時住んでいた家にたくさんの乙女椿が咲いていて、それが朽ちて織り重なっていくと地面全体がピンク一色になっていくのです。その様子が毎年なまめかしく、どうしても頭から離れなかったのでタイトルに含みました。花言葉は初めて知りました。でも、腑に落ちるものがありますね。
— タイトルに添えられたもうひとつの言葉の「庭」ですが、監督にとって「庭」とはどのようなものですか?
そこに住んでる人の気配のようなものだと思います。その人の考えや好みや気持ちが反映されているもので、荒れていくのも、贅を尽くして造り込むのも、すべてそういうことを表していると思います。
— 本作、特に庭や自然の映像美は驚かされるものがありましたが、撮影する上で意識された点があれば教えて下さい。
僕はずっと写真を撮ってますが、意識して常に撮るということではありません。撮りたい衝動に駆られる、その瞬間に撮ることを大事にしています。「花が咲いている、綺麗だ、だから撮ろう」という感覚ではなくて「あれっ」「あっ」「何なんだ」という衝動が瞬間的に起きて、そこに引き寄せられて”撮る”っていう。生けどりの感覚です。
— 雨に降られる風景や雨上がりの庭の表情、そういった自然の画も衝動的にカメラに収められたのでしょうか?
そうですね。雨のシーンというのは脚本上にはありましたが、雨が降るたびに、風に揺れている雨だったり、瓦を濡らす雨だったり、そういう日本的な美しさをそれぞれに感じながら撮っていました。
—役者さんを撮られるときも、”撮り方”という部分では変わらないものでしょうか。
人物の場合、”気配を撮る”といいますか…人物そのものを浮かび上がらせている光というものが重要で、それによってその人の存在を読み取る。空間の中で、役者が居る場所、それに触発されてどこから見るべきかというアングルが決まる。カメラがあるからそこに座るべきだ、ではなく、そこに座っているからカメラはここから撮るべきだという。
—アングルのお話がでましたが、役者さんの表情がすべて映ることは少なく、どこか奥ゆかしく、見る側の想像力をつけたして感情を読み取るような映り方でした。
(気配に触発されて撮影した)結果だったと思います。僕は写真のときも、どこからどう見たらいいかというのは迷いません。自然に僕が眺めていた位置がカメラの位置で、あまり他の場所からというのは試したりはしません。さらに言えば、あまりアングルとして考えていなくて。眺める場所、見つめる場所、そこに自分が立ち、結果カメラがあるというだけかもしれません。