Jun 29, 2017 interview

中村義洋監督がアクション時代劇『忍びの国』に込めた熱い想いとは?

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原作を変えるのは明確な理由があるときだけ

 

──伊賀一番の凄腕を持ちながら怠け者な生活を送っていた主人公の無門(大野智)ですが、嫁のお国(石原さとみ)に尻を叩かれ、織田軍との戦いに挑むことに。『映画 怪物くん』(11年)以来となる中村監督の目には、俳優・大野智はどのように映っているのでしょうか?

セルフプロデュースにまったく興味がない人、でしょうね。仕事だから頑張るけど、自分がカメラにどう映るかは気にしていないので、撮影の合間にモニターを覗くこともしません。性格的には優しいし、自分が自分が……というのもない。本番中は、大野智は消えて、頭の中は無門だけになっていたと思います。そこまでやってくれる俳優はそうそういません。彼の場合は完全に役に入って、しかも相手の芝居に合わせてくれる。それって完璧に台詞や動きを覚えていないとできないことなんです。彼は事前にちゃんと準備を済ませて、現場に入ってくる。石原さとみちゃんも同じタイプです。彼女の女優としての良さは、相手の台詞をちゃんと聞いているということ。さとみちゃんは相手が芝居を変えてくれば、自分もリアクションを変えてくる。ちゃんと相手の芝居に反射できる俳優って、意外と少ないものなんです。

 

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──物語の後半、ようやく心を通わせるようになっていく無門とお国ですが、意外な結末が2人を待っている。原作をきっちり映画化することで定評のある中村監督ですが、無門とお国とのラブロマンス要素を膨らませることは考えなかった?

いや、それは必要ないでしょう。『忍びの国』をひと言で表現すれば「人でなしが、ようやく人になる」というシンプルな物語です。ラブ要素を増して映画を盛り上げるというのは、この作品のテーマから外れることになるじゃないかと。僕が原作を変えるときは明確な理由があるときだけです。もちろん予算とかスケジュールの問題もあるけど、一番は小説と映画の面白さという土俵の違い。映画だったらこの見せ方、という変え方ぐらいで、今言われたみたいに、ラブ要素で盛り上げるような作品にしなくちゃいけないのなら、僕は映画化しないし、引き受けることもしません。作品の本質的なところをイジらなくちゃけないのなら、映画化する意味はないと僕は思うんです。

──原作に惚れたからこそ、映画化するということなんですね。

そういうことです。作家さんにはそれぞれ出版社の担当編集者がいるわけですが、一緒に呑みに行くと、よくケンカになります。「この本をいちばん愛しているのは俺だ!」と。真剣なケンカじゃなくて、半分ふざけてですよ(笑)。だから、原作を変えようとかは基本考えません。すごく変えた場合でも、本質は変えていない自信はあるから、それは映画化権を手に入れた監督の権限として、「他の原作ファンには申し訳ないけど、映画化権を持っているのは俺なんだよね〜」と優越感に浸ったりします(笑)。

 

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『忍びの国』は現代に繋がる物語

 

──戦国時代を舞台にした『忍びの国』ですが、見方によっては企業合併を重ねていつの間にか大企業のエリート社員になってしまった侍大将の大膳(伊勢谷友介)、ローカル企業のタヌキ社長・百地三太夫(立川談春)、仕事はできるけど出世の見込みのない契約スタッフの無門(大野智)ら価値観の異なる者たちの戦いにも見えます。現代社会と重なる部分がある?

江戸時代の地域再生を題材にした前作『殿、利息でござる』(16年)もそうでした。狙っているわけではないんですが、脚本を書き直していくうちに、少しずつ現代的な要素が入っていくんです。『忍びの国』の場合は8年間、脚本を直し続けました。マキタスポーツさんが演じた長野左京亮は典型的な中間管理職タイプのサラリーマン。どんなに頑張っても同僚の大膳には勝てないけど、ずっと親友同士でいる。織田信雄(知念侑李)みたいに「なんで、俺は部下たちから尊敬されないんだ」と嘆いている上司も多いはず。現代と通じるところはいろいろあると思います。でも、まぁ、今回は時代劇として単純に楽しんでもらって、伊賀衆=虎狼の族(ころうのやから)は今も生きているんだと、『忍びの国』を楽しんで観てくれた人たちに最後の最後に突き付けるものにしています。そこが、やはり和田さんがいちばん伝えたかったことだと思うし、原作を読んで僕自身の胸に突き刺さった部分でしたから。