- 平野:
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1963年に『鉄腕アトム』が放送された後、東京オリンピックを挟んで、以降、『オバケのQ太郎』(1965年~)、『おそ松くん』(1966年~)、そして『ゲゲゲの鬼太郎』(1968年~)と子供たちが胸をときめかせたアニメ作品が次々と放送されていきます。そして、その全てにマコさんが出ているんですよね(編集部注:特に『ゲゲゲの鬼太郎』では主人公・鬼太郎役に抜擢)。
- 野沢:
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はい、出てます、出てます(笑)。当時はどれもまだモノクロでしたね。
- 平野:
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徐々に皆さん、テレビアニメに慣れてきたころだと思うのですが、収録風景は『鉄腕アトム』の頃からどういう風に変わっていきましたか?
- 野沢:
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よりいっそう和気あいあいとした雰囲気になっていきましたね。映像に合わせて演技するコツみたいなものもだんだん分かってきました。テストの映像に演技を合わせるとき、役者は台本を見ているので、キャラクターの口がどういう動きをしているのか見えないんですが、それを手の空いている役者がサポートするという協力体制ができたりしたんですよ。私は下っ端だったので、ずっと皆さんのお手伝いをしていました。いや、緊張しましたね。例えば『ゲゲゲの鬼太郎』なんかは、大塚周夫(ねずみ男役)さんやら劇団の先輩もたくさん出ていらっしゃいましたからね。 「マコ、ちょっと見ててくれ」 「はいっ!」 ……って、そりゃあもう真剣にやってました。
- 平野:
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皆さんの“声優”に対する拒否反応みたいなものは、その頃にはだいぶ和らいでいたんですか?
- 野沢:
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いや、それはまだ少なからずありました。ただ、「くだらない」とバカにしていたのではなく、とにかく自分らしく演じられないことがストレスだったんです。でも私個人は『ゲゲゲの鬼太郎』をやるのがすごく楽しくて、ああ、これは自分に合っているなと思っていました。目玉のおやじ役を演じた田の中勇さん、ねずみ男役の大塚周夫さん、主要な3キャラクターを同じ劇団出身のメンバーでやれたということも大きかったのかな。
- 平野:
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それはリラックスして演じられそうですね。
- 野沢:
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長年一緒にやってきたので演技も合わせやすいんですよね。こういう感じで来るだろうなってのが分かるんです。
- 平野:
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目玉のおやじがこう来るだろうなとか、ねずみ男がこんなふうに絡んでくるだろうなとか、役者同士のキャッチボールがきちんと成立しているとたしかにやりやすくなりますよね。
- 野沢:
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そうそう、『ゲゲゲの鬼太郎』と言えば、収録場所も鬼太郎にぴったりだったんですよ。東映の大泉のスタジオで、今はとてもきれいに建て替えられているんですが、当時はコンクリート打ちっ放しの寒々としたビルだったんです。 今でも忘れられないのが、鬼太郎が夜の霊安室を訪ねるシーンの収録。スタジオのひんやりした空気感のせいもあって、ついつい役に入り込んでしまい、霊安室のドアがドーンと開いたところで思わず「ウワーーーーッ!!」って絶叫してしまいました。後にも先にもあんな恐ろしい思いをしたことはなかったですね(笑)。
- 平野:
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東映さんは、鬼太郎ということであえてそのスタジオにしたのかもしれませんね(笑)。
- 野沢:
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(笑)そうかも知れません。でも怖かった~。
- 平野:
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『ゲゲゲの鬼太郎』の演技についてもう少し聞かせてください。先ほどから、何度も「キャラクターに演技を合わせる」苦労についてお話されていますが、演じているうちにキャラクターが役者に寄ってくるということはなかったのでしょうか?
- 野沢:
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それはあったと思います。周さん(大塚周夫さん)なんかは、積極的にキャラクターを自分の中に採り入れていましたね。周さん=ねずみ男ですよ。本当にあのまんまの性格なんですから(笑)。当時も「周さん、ねずみ男そのままですね!」なんて軽口叩いて、「なんだよ、マコ。俺はすごい演技してるんだぜ?」なんて嫌がられてました。でも、当人はきっとあの役が大好きだったと思いますよ。乗りに乗っていましたからね。
- 平野:
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ねずみ男は何と言うか、人生のギリギリの線を攻めるようなキャラクターでした……よね。
- 野沢:
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ずるがしこくてね(笑)。もちろん周さんがそういう人だとは言わないんですよ? ただ、そこに入り込んでしまうのがとても上手でした。今でもねずみ男の絵を見ると、周さんの声でセリフが再生されます。
- 平野:
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それは鬼太郎=マコさんという意味でも一緒ですよね。私も鬼太郎の声は今でもマコさんの声で再生されますよ。 さて、『ゲゲゲの鬼太郎』はマコさんにとって初の主演作だったと思うのですが、主人公を演じるにあたり、演技プランなどで工夫したことはありますか?
- 野沢:
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実は私、演技をするにあたって、あらかじめ役作りをして臨んだことって、一度もないんです。スタジオに入って、映像が流れて、マイクの前に立って、そのキャラクターに入り込んで出した第一声が、そのキャラクターの声だと思っています。そのやり方は当時から今まで変わっていません。それで原作の先生や監督にNGを出されたこともないんですよ。
- 平野:
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鬼太郎役に野沢さんを抜擢されたのは、原作の水木しげる先生だったそうですね。
- 野沢:
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そうなんです! ただ、一足飛びで決まったわけではなく、きちんとオーディションを受けた上で選んでいただきました。オーディションには東映のプロデューサーとマネージャーの推薦で参加したんですが、なんと最後に残ったもう1人の候補がテレビ局プロデューサーの推薦だったんです。 それで私はもう諦めきっていたのですが、マネージャーたちに説得されて自分なりに最後までがんばってみたところ……なんと合格。聞けば、水木先生が強く推してくださったということで。うれしかったですね。その後、『銀河鉄道999』(1978年~)の鉄郎も、『ドラゴンボール』(1986年~)の悟空も、みんな原作の先生が選んでくださったんですよ。
- 平野:
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松本零士先生も、鳥山明先生も、マコさんしかいない、と。その3作品はマコさんの出演作品の中でもとりわけ印象の強い作品なわけですが、やはりそれは生みの親が認める声だったということが大きいのかも知れませんね。 『ゲゲゲの鬼太郎』はその後、第2シリーズまで鬼太郎を演じた後、第3シリーズではグリコ(戸田恵子さんの愛称)、第4シリーズでは松岡洋子さん、第5シリーズでは高山みなみさんというかたちでバトンタッチしていきますよね。実は、そこでバトンタッチしたおかげで、マコさん最大のヒット作となる『ドラゴンボール』(1986年~)に出演できたという話を聞いたのですが……。
- 野沢:
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実は当時のフジテレビには主役をやれるのは1作品だけというルールがあったんですよ。ですので、もし第3シーズンも鬼太郎役を継続していたら、『ドラゴンボール』のオーディションすら受けることができませんでした。その後、何かの機会で戸田さんとお会いしたときにものすごく恐縮されてしまったんですが、こちらとしては逆にあなたのおかげで悟空役になれたのよという気持ちだったんですよ(笑)。 そして、その上でうれしかったのが、多くの人が鬼太郎を演じていく中で、私の演じた鬼太郎を大事に思ってくれている人が多かったこと。
- 平野:
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その気持ちは分かります。さっきも言いましたがやっぱり古くからのアニメファンにとっては鬼太郎=マコさんですから。
- 野沢:
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以前、『ゲゲゲの鬼太郎』40周年記念映画(2008年公開『劇場版ゲゲゲの鬼太郎 日本爆裂!!』)が公開された際、それまでに鬼太郎を演じた4人が集まってインタビューを受ける機会があったんです。そうしたら戸田さんが「私たちにとって、鬼太郎と言えばマコさんなんです」って言ってくださってね……。
- 平野:
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でも、そう言ったグリコの気持ち、すごく分かります。『ドラゴンボール』をやってもらってる間だけ、自分たちが引き受けているんだくらいの気持ちでいたんじゃないでしょうか。
- 野沢:
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本当にありがたいことです。感謝で一杯。
- 平野:
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私もマコさんのファンとしてグリコたちに感謝ですね(笑)。
構成 / 山下達也 撮影 / 田里弐裸衣
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野沢雅子(のざわまさこ)
東京都出身。青二プロダクション所属。劇団ムーンライト主宰。声優業の創生期から活躍。主な出演作は、アニメ『ドラゴンボール』シリーズ(孫悟空、孫悟飯、孫悟天)、『銀河鉄道999』(星野鉄郎)、『ゲゲゲの鬼太郎』(鬼太郎/第1~2作)、『あらいぐまラスカル』(ラスカル)、『ど根性ガエル』(ひろし)、『怪物くん』(怪物太郎)、『ONE PIECE』(Dr.くれは)ほか。
平野文(ひらのふみ)
1955年東京生まれ。子役から深夜放送『走れ!歌謡曲』のDJを経て、’82年テレビアニメ『うる星やつら』のラム役で声優デビュー。アニメや洋画の吹き替え、テレビ『平成教育委員会』の出題ナレーションやリポーター、ドキュメンタリー番組のナレーション等幅広く活躍。’89年築地魚河岸三代目の小川貢一と見合い結婚。著書『お見合い相手は魚河岸のプリンス』はドラマ『魚河岸のプリンセス』(NHK)の原作にも。