東京現像所は、カラー映画の需要が高まりつつあった1955年、既存の東洋現像所(現IMAGICA)に競合する大規模な現像所として設立され、それから68年にわたって、映画・アニメ・TVを中心として映像の総合ポストプロダクションとして数々の名作を送り出してきた。
予告編制作会社バカ・ザ・バッカ代表の池ノ辺直子が映画大好きな業界の人たちと語り合う『映画は愛よ!』、今回は、2023年11月30日で惜しまれつつも全事業を終了する、(株)東京現像所 代表取締役社長 矢部 勝氏に、ご自身の映画との関わりや思い出、東京現像所と映画への思いなどを伺いました。
映画館勤務のつもりが映画の宣伝の仕事で30年
池ノ辺 矢部さんは、ずいぶん長い間この映画業界でお仕事されているわけですが、最初は東宝(株)の宣伝部だったんですね。どうして東宝に入社しようと思ったんですか?
矢部 単純に映画が好きだっていうのはありました。両親が映画好きでテレビの洋画劇場なんかをよく見てましたから、それに影響されたんでしょうね。ただ、就職の時に東宝を受けたのは、単純に大学のボート部の先輩が系列会社にいたからです。それはもうシンプルな動機です。
池ノ辺 それで受かるのもすごいですね。
矢部 試験はどうしようもないくらい出来なかったんですけど。なぜか僕らの年は、ラグビーやテニスをやっていた体育会系ばかり取ったようで、筋肉採用と言われてました(笑)。
池ノ辺 東宝を受けたということは、映画関係の仕事をしたいと考えていたんですね。
矢部 単純に「入ったら映画館で働く」くらいしか考えてませんでした。ましてや宣伝部なんて想像もしてなくて。映画のそばにいられる仕事ができたらいい、とは思っていましたから東宝を受けたんですが、東宝イコール映画館くらいのイメージしかない(笑)。だいたい、どうしても東宝じゃなきゃというわけでもなくて、僕自身は松竹映画が好きでしたから、そこで募集があったらそちらを受けてたかもしれない。
池ノ辺 それが、東宝で採用されて宣伝部に行けと。
矢部 そうです。1983年入社で、最初はアシスタント。大人向け、青少年向け、アイドル専門と3つの企画室に分かれていました。僕は青少年向けの青春映画を主に扱う企画室に入って、最初に担当したのが新城卓監督の『オキナワの少年』(1983)です。
池ノ辺 想像もしてなかったという宣伝部は、実際はどうでしたか。
矢部 もう何も考えずに飛び込んだという感じです。でもいい先輩がたくさんいて、あたたかく迎えてくれましたから、あまり緊張もせずのびのびと仕事ができた気がします。
池ノ辺 当時の宣伝部は、どちらかというと映画を紹介するという感じで予告編を作って、売り込んで、パブリシティまでやってましたよね。
矢部 そう、その頃は宣伝を企画するところからね。当時、『八甲田山』(1977)を大ヒットさせた白井泰二さんという宣伝の室長がいました。この方は非常にロジカルな方で、宣伝のあり方とかいろんな技法みたいなものをまとめて、それを宣伝実務に取り入れた人でした。僕らの頃にはそれらがテキストになっていて最初に読まされた記憶があります。
池ノ辺 どんなことが書いてあったんですか。
矢部 そもそも宣伝とは何か、プロパガンダと何が違うのか、そんなところから入る。ずいぶん勉強させてもらいました。
池ノ辺 そこにはどの位いたんですか。
矢部 21年弱です。
池ノ辺 そんな中、印象に残っている作品はありますか。
矢部 岡本喜八監督の『大誘拐』(1991)でしょうか。これは監督にはもちろんお世話になりましたが、奥様で製作をされていた映画プロデューサーの岡本みね子さんにも、ずいぶんお世話になりました。自分の体、自分の足を使って動くことの大切さを教えられました。公私ともにかわいがっていただいたんです。予算の関係もあって、TVスポットはゼロ。パブリシティと新聞広告にほぼ特化してやり切った作品でしたね。
あとは、伊丹十三さん。『ミンボーの女』(1992)から遺作となった『マルタイの女』(1997)まで一緒に仕事をさせてもらっています。グラフィックのことなどもそこで勉強させてもらいました。
池ノ辺 伊丹監督はグラフィックもやっていたんですか。
矢部 予告もポスターも、全部ご自分でディレクションされるので、こちらはとにかくその環境を整えること、それを徹底的に叩き込まれました。伊丹さん自身が信じられないような事件に巻き込まれたりもしましたから、マネージャーというとおこがましいですが、付き人のような感じで最後までおつきあいさせていただきました。すごく刺激的で、クタクタになるんですが、面白かった。生きていたら、どんな作品を作っていただろうと、今も思います。
それと、やはり外せないのがスタジオジブリの作品ですね。私は、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)、『耳をすませば』(1995)、『もののけ姫』(1997)の3本の宣伝を担当しました。高畑勲監督、近藤喜文監督、宮崎駿監督とジブリの3人の監督とご一緒出来ました。そして全てにおいて鈴木敏夫さんの薫陶を受ける訳です。ジブリの編集誌「熱風」でも話しているので細かい話は省きますが、『もののけ姫』の時に相当ガツンとやられましてね。優柔不断な自分への叱咤激励でした。その時、リーダーとして一番大事なことを叩き込まれました。今、社長をやっていても基本は一緒だなと時々思い出しています。懐かしい話です。